保阪正康 日本史縦横無尽
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幣原喜重郎内閣が密かに進めていた「戦争責任裁判法の制定」
志賀義雄が共産党大会で示した1300人の戦争責任者は、いわば当時の日本の支配階級と言ってもよかった。そこには戦争責任が問えるのか、といった問題が含まれていた。つまり、たしかに支配階級に属していても、…
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戦争責任者の名を挙げる演説 志賀義雄は最後に「それは天皇だ」と叫んだ
志賀義雄の戦争責任者の名を挙げる演説は次第に佳境に入った。軍人、財界人の数を報告したのちに、次のように声を大きくしてその数字を披歴した。 「さてそのほかに、軍部のいうままに振る舞った労働組合の…
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志賀義雄が刑務所から釈放 共産党大会で示された1300人の戦犯リスト
共産党大会が共立講堂で開かれたのは、志賀義雄が府中刑務所から釈放されてから、ほぼ4週間後のことであった。この時におよそ150人の共産党の党員が獄中から解放されたと、マーク・ゲインの書(「ニッポン日記…
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思想犯・志賀義雄、徳田球一の「獄中18年」が流行語になった
占領期の6年8カ月は、国家主権が失われていた時であったが、この間の日本人の姿は占領期でない時代とは多くの点で異なっていた。戦争に負けるという体験は、日本人には大きな衝撃だったのである。そこで日本人の…
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敗戦した日本の「懺悔」とは「天皇に申し訳ない」の意味だったのか?
敗戦後の日本人の姿勢について、2つの言葉がキーワードになったという事実を示してきた。ひとつは「一億総懺悔」であり、もうひとつが「負けっぷりの良さ」である。この2つの意味を問い詰めていくと、「戦争の敗…
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玉音放送を信じず、奇妙な噂話が広がった日本の「負けっぷりの悪さ」
前回名前が出た吉田茂と鈴木貫太郎は、日本の敗戦でいかに筋を通した姿勢を貫くかを話し合っている。2人とも対米英戦争には消極的というより、むしろ反対の立場であった。それだけに「敗戦」を潔く受け入れようと…
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岸田首相に問いたい吉田茂、鈴木貫太郎の「歴史的忠告」
新しい年を迎えて、日本は、あるいは世界はどのように変わるのであろうか。現実を冷静に見る限り、さしあたりは大きな変化は起こりそうもない。ロシアとウクライナの戦争は簡単には解決しないことが明白になってい…
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米軍兵士に性のサービス 軍需工場を売淫施設に変えて経営者たちはボロ儲け
GHQが日本に駐留しているアメリカ軍兵士に性のサービス機関であるRAA(特殊慰安施設協会)に出入りしてはならないと命じたのは、昭和21(1946)年4月から5月のことである。その結果、こうした売春宿…
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東久邇宮稔彦親王が発した「一億総懺悔」と日本社会の二面性
日本がポツダム宣言を受諾して、アメリカを中心とする連合国に正式に降伏の意思を明確にしたのは、昭和20(1945)年8月15日の正午である。鈴木貫太郎首相は辞任し、後任に東久邇宮稔彦親王が首相を引き継…
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「日本の奇麗な女に会わせようとしただけなのに」不平を述べた
マーク・ゲインが書いている内容をもとに記述を進めると、RAA(特殊慰安施設協会)は、まず勧業銀行から3000万円の貸し出しを受けたという。そして1株1万円で、業者や組合などに割り当てられた。ここから…
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あの手この手でご機嫌を…アメリカ軍が愉快に過ごせるよう作った慰安施設
RAA(特殊慰安施設協会)は実際は半年もしないうちに潰されたのだが、この変わり身の早さは日本人の特徴なのかもしれない。戦時下に日本に協力したビルマ(現・ミャンマー)のバー・モウは日本の敗戦とともに日…
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国防省に施設廃止を訴え 米国の婦人団体の圧力で潰された日本の“売春宿”
特殊慰安施設とはいうものの実際は売春宿のことである。占領軍が日本に進駐してくる前にすでに開業の準備は整っていた。占領に伴う性犯罪を何よりも恐れていた政治指導者は、この施設で性の発散をしてくれることを…
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女性を集めて慰安所を造った日本政府 建前は良家の子女の貞操を守るため
6年8カ月の占領期間には、日本人と日本社会の性格や思考法、さらには人生観などがよく表れている。前回紹介したように、マッカーサー暗殺をGHQ(連合国軍総司令部)が恐れていたにもかかわらず、そういう動き…
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マッカーサー暗殺計画は事実だったのか? その後、全く報じられていない
GHQ渉外局発表の妙な記事は各紙に掲載された。おそらくかなり強制的に書かされた記事ということであろう。 当時は紙不足で、記事量は全体に少ない。それなのに、例えば中央紙は1面の真ん中に4段組の…
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憎しみの感情どころか「マッカーサー様、日本の天皇になってください」という手紙まで
太平洋戦争が終わってみると、日本人の性格、生活、思考法、さらには人生観、歴史観は大きく変わった。というより戦時下の狂乱状態を悪夢として自省し、すぐに新しい時代に慣れていった。幕末から明治に移行して人…
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戦況の悪化とともに東條英機の顔は「能面」になっていった
東條英機と石原莞爾の対立、相克をもう一話語っておきたい。軍人と表情についてという視点で、両者を見つめてみるとどうだろうか。 一体に軍人は喜怒哀楽の表情を見せない。というより武人は柔和な表情で…
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東條英機が示達した「戦陣訓」を真っ向から否定した石原莞爾
東條英機陸相が、陸軍部内に「戦陣訓」を示達したのは、昭和16(1941)年1月のことであった。この戦陣訓は日中戦争で、日本兵が意外なほど簡単に捕虜になったり、あるいは不法行為をはたらくことに戦時指導…
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「我が闘争」を読んだ石原莞爾はヒトラーを強く批判した
東條英機と石原莞爾の対立と彼らの考え方の相違点についてもう少し話を進める。ヒトラーに対してどう思っていたか、両者の違いを見ていくとかなりの相違点が発見できる。 東條はヒトラーと比較されて論じ…
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事変の解決に奔走する石原莞爾、弾圧する東條英機
石原莞爾は表面上は参謀長の東條英機に逆らわなかった。しかし、石原の周辺は東條に批判的で、その態度が日本軍閥の権化であると陰に陽に反対の動きを示した。石原は日中戦争(当時の語では支那事変)の拡大に反対…
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東條英機を使った石原莞爾追い落とし作戦 2人の対立は意図的に演出された
石原莞爾と東條英機の対立について、もう少し具体的な事実を語っておこう。この2人の対決は、昭和陸軍の基本的な体質に関わる問題であり、なぜ東條のような軍官僚が跋扈するに至ったかの重要な側面がうかがえるか…