近鉄元監督・別当薫は悩める「18歳の4番打者」土井正博を静かな声で励ました
別当薫(近鉄・元監督)
1961年、近鉄に大阪・大鉄高(現阪南大高)を中退して入団した17歳の選手がいた。土井正博だ。
有力校の多い大阪でも一、二を争う強豪チームで1年生ながら打線の中心として活躍していた土井に注目したのがスカウトだった「球界の寝業師」根本陸夫。近鉄の本拠地・藤井寺球場で大鉄が練習していたことから土井の存在を知り、その才能を早くから見抜いていた。
幼い頃に父親が戦死し、母子家庭に育った土井は根本の誘いを受けるや、経済的に楽にしてあげたいと、進学を勧める母親を説得して入団。母親思いの孝行息子だった。
当時の近鉄は前年まで3年連続最下位というリーグのお荷物球団。特に土井が入団した61年は36勝103敗1分け、借金67と負けに負け、記録をもう1年延ばした年だった。シーズン100敗以上を記録したのは今でもこの年の近鉄しかない。
61年、土井は一度も一軍に呼ばれることなくシーズンを終えた。すると、早くも整理対象となった。
当時の近鉄監督は千葉茂。長嶋茂雄の前に背番号3をつけ、名人芸のライト打ちでファンを沸かせた二塁手だ。シーズン終了後、千葉は解雇予定者のリストに迷うことなく土井を入れた。千葉は自らの現役時代のような、長打力はなくとも左右に巧みに打ち分けるシャープなバッターが好みだったからだ。