元日本ハム南竜次さん ブラック企業勤めの苦い経験を糧に起業、モットーは「人は宝」
南竜次さん(株式会社AIRECサービス代表取締役/50歳・日本ハム→米独立リーグ)
「もともと全然大したことない選手でしたから、プライドが邪魔をするなんてことはありませんでした」
こう話すのは、現在、家電製品の設置や飲食店経営などを手掛ける「株式会社AIRECサービス」の代表取締役を務める南竜次氏だ。
天理高時代の1990年、夏の甲子園優勝投手となり、日本ハムにドラフト4位で入団。4年目に肘を痛めたことが原因で、97年に戦力外に。一軍での登板はわずか11試合にとどまった。翌年、米独立リーグに挑戦するも、半年後に帰国。最初に就いた職は引っ越しのアルバイトだった。
「大阪の実家に帰って、すぐバイトを始めました。日本ハムからもらった契約金は両親に渡していましたが、もう残ってなかったんですよ(笑)。とりあえず割のいい仕事ということで日当1万円ほどの引っ越しバイトを。『あれ、南君じゃない?』なんて話しかけられても、恥ずかしいとかまったく思わなかった。元プロ野球選手だぞ! 甲子園V投手だぞ! なんて、おごることもない。そもそも甲子園優勝はトーナメントによる運も大きいですからね」
一般人が音を上げるような作業でも難なくこなし、3カ月ほどで正社員に勧誘された。しかし、給料面の問題で断り、次に灯油の巡回販売員のアルバイトに就いた。
■名古屋支店の立ち上げメンバーに立候補し正社員に
灯油を積んだ車で、スピーカーで宣伝しながら決められた道を巡回するこの仕事の給与は歩合制。繁忙期の冬は朝7時に出社し、8時ごろにタンクローリーに乗り込む。順路の途中で灯油が空になったら、事務所に戻って補給し、中断地点から再開。仕事を終えて会社に戻るのは夜10時ごろで、そこから精算作業をすると、退社時には日付が変わっていたという。
「週6回の勤務でした。そんな生活を送りながら、引退後初めての冬を越しました。月収は70万円ぐらい。しんどかったけど、稼げたんです。この会社は冬に灯油を売り、夏はエアコンの設置を請け負っていた。だから、夏場は先輩の見習いとしてエアコン設置に付いていき、ノウハウを学びました」
会社の業績は好調で、99年10月には名古屋支店がオープン。南氏にとっては願ってもない展開となった。
「現役時代から付き合っていた当時の彼女で今の妻は、名古屋に住んでいました。それまでは大阪から会いに行っていたので、本当にラッキーだと。名古屋支店の立ち上げメンバーに立候補して、正社員になった。支店の課長の肩書も付きました。店長と私の2人だけでしたけどね(笑)。ちょうどこの時期に結婚しました」
守るものができたことで、より仕事に身が入った。
「名古屋支店は大成功しました。おそらく、東海地方で灯油の巡回販売は初の試みでしたから。翌年には岡崎支店、小牧支店とどんどん規模を拡大し、正社員4年目には4店舗を統括するエリア長に昇進しました」