1992年バルセロナ五輪の柔道金メダリスト、「平成の三四郎」こと古賀稔彦さんが病気のため、24日に亡くなりました。53歳でした。古賀さんが柔道家としての原点を語った日刊ゲンダイ(2011年2月28日号)の記事「私の秘蔵写真」を再掲載します(日付、肩書、年齢等は掲載時のまま)。
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「平成の三四郎」と称され、92年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級で金メダルを獲得した古賀稔彦さん。96年アトランタ五輪では同78キロ級で銀。小柄ながら、キレのある一本背負いで2大会連続メダルは記憶に新しい。古賀さんが選んだ写真は“師匠”との一枚だ。
■小1から始めた柔道 師匠はいちばん身近にいた
「小学校低学年の頃、当時、実家があった福岡の近所の川で撮った写真です。右に写っているのが2歳年上の兄貴です」
幼少時、病弱だった古賀さんは、遊びも登下校も何をするにも兄・元博さんの後をついて回っていた。
柔道を始めたのは小学1年。いつも一緒に遊んでいた友人たちが道場に通い始めたため、兄弟2人で入門した。最初は遊び半分で始めたが、練習試合で簡単に負けてしまったことで、「どんな相手にも負けたくない」と発奮。父、兄とともに練習に明け暮れる日々を過ごし、2人はメキメキ頭角を現していく。
兄は、中学入学と同時に東京の講道学舎に入門。2年後、古賀さんも後を追って九州から上京した。
「2年ぶりに兄貴の柔道を見たら、自分よりでかい相手を一本背負いでバンバン投げていた。当時、ボクはひざをついた背負い投げをやっていたんですが、兄貴から『オマエの背負いじゃ、でかい相手は投げられねーぞ』と言われました。それで、教えてもらうことにしたんです」
弦巻中学に入学した古賀さんに、兄のスパルタ特訓が始まった。
「兄貴はものすごく短気な上、とにかく基本に厳しかった。体を入れるタイミング、肩の高さ、足の指の位置に至るまで、基本に忠実に叩き込まれる。少しでもできないとメチャクチャ怒られて、『バカ野郎! こうやってやるんだよ!』と、容赦なく投げまくるんです。これが毎日でしたからね。『早く覚えないと自分の身が危ない』と、必死で居残り練習しました」
全体練習が終わった後、畳の上にチョークで足形を書き込み、大きな鏡の前で、一人打ち込みを200本近く繰り返した。がに股を矯正するためにわざと内股で歩くトレーニングを敢行。恥ずかしい姿を見られたくないから、同級生と連れ立って登下校するのもやめた。
「もし、兄貴が変に優しかったり、適当な性格だったら、ボクは並の選手で終わっていたでしょうね。兄貴はいまだに『オレのおかげだ』って言いますけど。ハハハ」
古賀稔彦さん「兄貴がいなければ並の選手で終わっていた」
1992年バルセロナ五輪の柔道金メダリスト、「平成の三四郎」こと古賀稔彦さんが病気のため、24日に亡くなりました。53歳でした。古賀さんが柔道家としての原点を語った日刊ゲンダイ(2011年2月28日号)の記事「私の秘蔵写真」を再掲載します(日付、肩書、年齢等は掲載時のまま)。
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