佐高信「追悼譜」
-
甘利明に傾倒した伊集院静を夏目雅子はどう思うのだろうか
作家の高樹のぶ子と対談した時、高樹の出身地の山口県防府市は種田山頭火の生まれた所だねと水を向けたら、山頭火は高校の先輩だと言われた。同じ防府高校の後輩が伊集院である。笑いながら、 「誰がいちば…
-
田淵義久が社長を務めた野村証券より厚かましたかったのが大蔵省だった
私が監訳者となったアル・アレツハウザー著『ザ・ハウス・オブ・ノムラ』(新潮社) は1991年夏に刊行されたが、その前の年の秋、証券取引所のある東京の兜町や大阪の北浜で、北島三郎の歌う「与作」の替え歌…
-
池田大作のボディーガードをしていた後藤組・後藤忠政の正論
池田を「人間の仮面をかぶった狼」とまで罵倒したのは前首相の菅義偉である。 1996年の総選挙で神奈川から立候補した菅は相手が創価学会出身の現織だったために、そんな激しい攻撃をした。 …
-
「ワイはアサシオや」にも描かれた元大関・朝潮は相撲界に欠かせない力士だった
私たちの年代では「アサシオ」と言われると、胸毛の濃かった先代の朝潮太郎を思い出す。横綱までいったが、強い時と弱い時の差が激しく、”2人の朝潮”がいると不思議がられた。徳之島出身で、高砂親方としては高…
-
ホンダF1総監督だった桜井淑敏が語った本田宗一郎のすごさ
ホンダF1で世界を制した桜井淑敏の『ゼロからの挑戦』(祥伝社)に出てくる本田宗一郎がすこぶる魅力的だった。 ホンダに入社して半年後、研究所のエンジン設計部門の一員に加えられた桜井は、先輩たち…
-
『独学のすすめ』『耳学問のすすめ』を書いた加藤秀俊が半世紀前にした指摘とは
『思想の科学』は鶴見俊輔を中心に、初期の同人には丸山真男もいて、主に大衆の動向に焦点を当ててきた。鶴見の兄貴分の久野収も含めて、私は『思想の科学』文化人といった分類ができると思うが、「中間文化論」で知…
-
硬派の経済ジャーナリスト内橋克人が意外にも評価した谷村新司の『昴』
硬派の経済ジャーナリスト、内橋克人と私の対論『KKニポンを射る』(講談社)は 1986年に刊行された。タイトル通り、日本の会社やサラリーマンをテーマにしているが、 第6章の「時代の哀歌」で谷村の「昴…
-
外資系証券会社幹部から出雲市長になった岩國哲人の「精神」
出雲市長となった岩國を彼の地に訪ねて対談したのは1992年だった。「『生活良国』のすすめ」と題したそれは『潮』の同年8月号に掲載されている。公明党と自民党が連立政権を組む前で、そのころは私も創価学会…
-
高島直樹は小池百合子と創価学会に振り回されて逝った
小池百合子と公明党(創価学会)に振りまわされた男が亡くなった。「都議会のドン」と呼ばれた自民党の内田茂を支えて東京都連幹事長を務めた高島である。享年73。 公明党幹事長の石井啓一が今春、「(…
-
「伊藤整の息子」という肩書に縛られた伊藤礼の”抵抗”と”復讐”
訃報欄には、「90歳 元日本大学教授、英文学専攻」に続いて「著書に、父で作家の伊藤整の歩みを描いた『伊藤整氏 奮闘の生涯』や1991年に講談社エッセイ賞を受賞した『狸ビール』などがある」とある。 …
-
党首でありながら社民党を捨てて立憲民主党に参加した又市征治
原発に党を挙げて反対できず、改憲ならぬ壊憲にも正面からストップをかけられない立憲民主党に、又市は元党首でありながら社民党を捨てて参加した。だから、死亡記事に「元社民党党首」と出たことに社民党に残った…
-
元フジサンケイグループ代表・羽佐間重彰はバランスがとれていた人物だったが…
フジサンケイグループ代表で元産経新聞社社長だった羽佐間の「お別れの会」が10月5日正午からオークラ東京で行われていると予告されている。 私も会ったことがあるが、羽佐間はバランスが取れた人だっ…
-
『マリリン・モンロー』を書いた東大教授・亀井俊介に影響を与えた師匠とは
1987年夏、岩波新書で『マリリン・モンロー』が出た。筆者は亀井である。東大教授が世界のセックス・シンボルについて書いたというので話題になった。それもおカタイ岩波からの刊行である。 「マリリン…
-
鈴木宗男に秘書として仕え、振り回されたムルアカの「悲劇」
急死した鈴木宗男の秘書ムルアカに『ムルアカ・クレッシェンド』(モッツ出版)という本がある。これを手がけた高須基仁はこの本について「かつて優しい眼差しだった彼は、日本での差別体験や、宗男騒動に巻き込ま…
-
「布川事件」で冤罪を晴らした桜井昌司の死で思い出したのは弁護団長の柴田五郎だった
『ショージとタカオ』というドキュメンタリー映画があった。1967年に茨城県利根町布川で男性が殺害された「布川事件」で強盗殺人罪に問われた桜井昌司と杉山卓男が冤罪を晴らすために闘い、再審無罪を確定させる…
-
生き残った野見山暁治、戦死した岡部敏也…戦争が2人の画家の人生を歪めた
洋画家の野見山が102歳で亡くなった。1920年に生まれて兵隊にとられ、旧満州から奇跡的に生還した野見山は、常に生き残った者の葛藤を抱えていたという。自分より何倍も才能のある仲間が死んでいったことを…
-
ロックシンガー「頭脳警察」のPANTAは「人なつっこい孤高」だった
フォーク・シンガーの中川五郎は「サタカさん、反戦集会などで会っているはずですよ」 と言うが、ロック・シンガーのPANTAと言葉を交わした記憶はない。 フォークとロックの垣根を越えてPANTA…
-
「こども電話相談室」で知られる無着成恭の目からウロコを落とした人
「こども電話相談室」で知られる無着成恭は、藤沢周平と同い年で同時期に旧制山形師範(現山形大学教育学部)に学んでいる。 青年教師の無着を一躍全国的に有名にしたのは『山びこ学校』(百合出版)だが、…
-
『ポパイ』『ブルータス』初代編集長、マガジンハウス元社長・木滑良久で想う”軟派”と”硬派”
1967年冬、直木賞を受賞した五木寛之は、当時住んでいた金沢で記者会見をし、 「ぼくは、直木賞をもらったら、第1回目の週刊誌連載は『平凡パンチ』でやりたい、とずっと考えていたんです」 と…
-
森村誠一は『悪魔の飽食』への右翼の攻撃に一歩も退かなかった
2012年秋に私は『飲水思源』(金曜日、のちに『メディアの怪人 徳間康快と改題して講談社+α文庫)という徳間伝を出した。その出版記念会で森村は私と対談をしてくれたが、それが最後の顔合わせになった。 …