佐高信「追悼譜」
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連立政権のキーマン武村正義が逝った…“ムーミンパパ”であり”バルカン政治家”だった
新党さきがけのトップとして、いくつかの連立政権のキーマンとなった武村(正義、9月28日死去、享年88)が亡くなって、『朝日新聞』に出た評伝で、武村に「最も記憶に残る政治家は誰か」と尋ねた記者の吉田貴…
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観光ポスターを見ながら「長崎は今日も雨だった」を作曲 ヒットメーカー彩木雅夫の心意気
落合恵子らのレディフレンドからヒンシュクを買う私の好きな歌に「なみだの操」がある。宮路オサムが歌ってヒットしたが、作曲が彩木雅夫。作詞が千家和也で、 <あなたのために守り通した女の操> …
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エリザベス2世とロンドン塔の悲劇
イギリスの女王エリザベス2世は1926年の生まれだった。マリリン・モンローやフィデル・カストロと同い年である。 読売のドン・渡辺恒雄もそうだが、ナベツネを持ってくると、現役感と同時に生臭さが…
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政治風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」の渡部又兵衛の不屈の精神
私がいま、日本で一番シャープなお笑い芸人と思っている松元ヒロは社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」から生まれた。松元と私の共著に『安倍政権を笑い倒す』(角川新書)があるが、松元と私はメール友だ…
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ゴルバチョフ死去の報で思い出した作家・米原万里への畏怖
ゴルバチョフ(享年91)の名前を出されると、条件反射的に米原万里のことを思い浮かべる。ゴルバチョフ死去の報に接した時もそうだった。 米原に初めて会ったのは日本テレビの「知ってるつもり?! と…
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小田嶋隆は相田みつをのことを「便所の神様」と風刺した
『にんげんだもの』でガマンを説く相田みつをが嫌いである。相田にイカれる人間はもっと嫌いだ。 その相田を「便所の神様」と喝破したのは小田嶋隆だった。トイレに置いてある日めくりなどによく相田が取り…
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照屋寛徳に次いで新里米吉も…沖縄「革新」への懸念
新里が急死して、玉城デニーの沖縄県知事選挙の選対本部長が交代することになった。 前沖縄県議会議長で社民党県連委員長でもあった新里は、デニーの前原高校の先輩でもあり、本部長にうってつけだった。…
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全共闘世代の河村光庸は芸能人への苛立ちを感じていたのだろう
この人には気まずい雰囲気のまま逝かれてしまった。 『東京新聞』の望月衣塑子がモデルの『新聞記者』のプロデューサーである彼に『俳句界』での対談を頼み、一度会ってOKをもらい、日時も決まっていたの…
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佐藤陽子で思い出すのは池田満寿夫ではなく、岡本行夫である
世界的バイオリニストで声楽家の佐藤陽子が亡くなったのは7月19日だった。享年72。芸術家の池田満寿夫のパートナーとしても知られ、テレビやCMにも一緒に出演したと訃報にある。 しかし、私は外交…
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写真家として初の文化勲章をもらった田沼武能に流した冷や汗
たった一度の出会いが忘れられないものとなった。 2003年10月1日、私は郷里の酒田市にある土門拳記念館の開館20周年で講演をした。そこに日本写真家協会会長だった田沼も来ていて、初対面のあい…
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「まっくら」や「からゆきさん」で女性たちの声を拾い続けた森崎和江の出会いと別れ
長田洋一という編集者がいる。私と同年輩で、河出書房新社で俵万智の『サラダ記念日』をヒットさせ、松下竜一の全集を出したりした。『文藝』の編集長として多くの作家と濃い付き合いをしたが、谷川雁が亡くなった…
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農民作家・山下惣一は農政への憤りを抱えたまま旅立ったのだろう
農民作家と肩書のつく山下惣一に怒られたことがある。井上ひさしが校長の生活者大学校が毎年、井上の郷里の山形県の小松で開かれていて、ある時、講師を頼まれて何か話をした。その後で、教頭役の山下に「テーマと…
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安倍晋三の父親代わりを自任していた叔父・西村正雄は、ネオコン的体質を心配していた
「安倍晋三 撃たれる」の報に接して、まず思ったのは、叔父の西村正雄から私がもらった手紙のことだった。西村は安倍晋太郎の異父弟で、旧日本興業銀行の頭取として、みずほ銀行の誕生に力を尽くした人である。 …