石原裕次郎 30年目のレクイエム
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裕次郎の歌声には上手下手を超えた味わいと説得力がある
「去る者 日々に疎し」は人の世の常、まして30年という歳月が過ぎてしまった。しかし、心を揺さぶる鮮明な生の軌跡が残れば、忘れがたい人間もいる。裕次郎はその種の数少ない人物のひとりであろう。目に見える映…
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白い雪に真っ赤な血と舞う花札…東映任侠路線の先駆け
昨今、少子化問題がかまびすしいが、裕次郎映画の最盛期である昭和30年代には、日本の人口はまだ1億人にとどいていない。また、東京オリンピックの昭和39(1964)年でも大卒者の初任給は2万2000円ぐ…
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若者の心に東京への思慕を再生産する原動力だった
若くして脚光を浴びたせいで、裕次郎は慶応大学を中退し、俳優の道を歩みだす。それでも「俳優は男子一生の仕事にあらず」とうそぶいていたから、どこかに居心地の悪さを感じていたのかもしれない。「自分とは別の…
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浅草でも新宿でも…「嵐を呼ぶ男」公開初日の観客動員数
幕末のころによく歌われた「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」という都々逸がある。新人のころの裕次郎が出た映画「幕末太陽傳」のなかで主役のフランキー堺が演じる居残り佐平次がお風呂でこの都々逸を…
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なぜ石原裕次郎は“日本で最も愛された男”と呼ばれるのか
石原裕次郎が昭和62年7月17日に52歳の若さで亡くなって30年。歴史家本村凌二氏がその魅力の神髄と時代性を今日から連続5回にわたって考察する。 銀座の喧騒のなかに「銀恋の碑」があるのをご存…