影かほる
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ドッキリ企画にダンプ松本が激怒「おまえが生きるか死ぬかなんて関係ねぇんだよ!!」
──1980年代の全女はクラッシュ・ギャルズと極悪同盟が敵対していた。両軍は、移動バスも別だった。 「極悪が使ってた“赤バス”は、もとは役員たちが乗ってたサロンカーなので、天井にシャンデリアがついてた。一番下っ端は、運転席のう...
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高額プレゼントからビール瓶襲撃まで…熱を増す女子プロレスファン
──全女は1970年代にマッハ文朱とビューティ・ペア、80年代にクラッシュ・ギャルズ、90年代の団体対抗戦と4度にわたってブームを巻き起こし、ファン層も変わっていった。 「アイドルブームって移動するんだよ。70年代後半は宝塚と...
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女子プロレス初 井上貴子フルヌード写真集の裏側「“女子プロ界の宮沢りえ”を作りたかった」
──キューティー鈴木がグラビア活動を始めた1989年ごろから“女子プロのアイドル化”が進み、影は全女レスラーの写真集プロデュースも手がけた。92年に出版した井上貴子のファースト写真集「Sel:FISH」に始まり、94年に3冊目、女子...
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破天荒な松永式飲食店経営…歌舞伎町の家賃330万円の店で1杯330円のカルビ丼を販売
──昭和の終わりから平成初期にかけて、松永兄弟は飲食産業に手を広げた。高司と健司はマンションの一室を業務用の什器が整った厨房に改築。大人の趣味の部屋からビジネスは誕生したのか。 「ウチらは、『第2サティアン』って呼んでた(笑)...
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全女式“夜の接待”は意外とクリーン 絶対に選手にお酌はさせない
──令和の女子プロ界では選手自身がチケットを手売りするのが一般化しているが、当時の全女にはなかった。 「絶対に選手に手売りはさせなかった。興行数が多かったので、物理的にできないだろうけど。それでいえば、お酌も禁止だった」 ...
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アジャコングのタレントプロデュースをイチから手掛ける
──90年代前半はブル中野のほか、井上貴子、井上京子のマネジメントを担当。豊田真奈美らの芸能活動にも同行し、90年代中頃からはアジャコングのタレントプロデュースをイチから手掛けた。 「アジャを売るために、テレビ制作会社をやって...
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突然の辞令でリングから裏方に…女子プロレスラーのイメージビデオを手掛ける
──「おまえ、明日から事務所に入れ」。1988年12月、国松から影に突然、マネジャーの辞令が下った。 「『えっ、明日から?』『そうだ。もうプロレス辞めろ。試合しなくていいから、事務所入れ』。国ちゃんは普段は何も言わない人だけど...
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ブル中野の“変身”と“覚醒”…控え室ではお母さんタイプだが、入場待ちしているときに…
──1985年、極悪同盟のダンプ松本からクレーン・ユウが破門されたことで、弱冠17歳のブル中野がナンバー2に。影は公私ともにブルと仲が良かった。 「中野さんは基本“乙女”。飼ってたダックスフントの名前は、大好きだった吉川晃司の...
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苦労人ダンプ松本の素顔…全女時代のいじめ体験で、相手に対して人一倍気づかいをするように
──ダンプ松本の影武者としてリングデビューした1985年から、ダンプが全女を退団する88年まで、影は極悪同盟の一員兼ダンプの芸能マネジャーとして24時間を共に過ごした。 「路地1本違いの建物に住んでて、寝るとき以外はほぼ一緒だ...
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松永家的「プロレスラーは商品」のウラ…兄弟にバレたらボッコボコ
──松永家いわく、プロレスラーは“商品”。酒、たばこ、男の「3禁」も高司(会長)の選手への思いからだ。 「交際は結婚前提ならOKなわけ。現に、(ジャンボ)堀さんは業界初の寿引退をしてるからね(1985年)。地方巡業が長いから、...
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松永家の常識を超えた企画力…ゴリラと一緒のリング入場プランに「飼育員も一緒に買ってくれば」
──全女の企画は松永家の奇想天外なプランから始まる。 「今じゃダメだけど、会長(高司)たちがタイへ旅行したときに、猿やリスを買ってきてね。私は『ゴリラは連れてこれないのかな?』って言ったことがある(笑)。大蛇を肩にかけて入場し...
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五男・俊国との思い出…ヘネシー3本をアイスペールに注いで回し飲み
──俊国の店「ラ・セーヌ」はこだわりの詰まった内装だった。 「俊ちゃんは『極悪女王』でも描かれていたけど、派手な開襟シャツを着ていて、兄弟の中でも一番おしゃれだった。そんな俊ちゃんだから、店の玄関は、俊ちゃんが自宅のお風呂にも...
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高校に入学も一学期で退学し、叔父俊国の店「ラ・セーヌ」に就職
──幼少期、かほるが常に一緒にいたのは叔父で五男の俊国。遊園地などに連れて行ってくれた。 「俊ちゃんは、とにかく豪快な人だった。子供2人に『こづかいやるから遊んでこい。これを2人で分けろ』って、1000円札をビリッと破いて半分...
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将来を有望視されていたオスカル一条は、練習中のケガが引き金で10代で急逝した
──マッハ文朱と同期で、かほるとよく遊んでくれたのがオスカル一条。オスカルはデビューから半年足らずでパンフレットの表紙を飾り、メインイベントに抜擢され、将来を有望視されていた。 「若手なのに、私たち松永の親戚の子供3人が遊びに...
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マッハ文朱、ビューティー・ペアブームを見ていた幼少期「マキちゃんにはよく遊んでもらった」
──初めて憧れた選手は、1974年に入門したマッハ文朱。かほるの4歳年上だった。 「他の選手と違ったね。入団前に『スター誕生!』で山口百恵と争って負けたというだけあって、実際に会うとオーラがあった。こっちは他の選手同様に遊んで...
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余興から興行へ…全日本女子プロレス創業当初の頃
──全女の創業当初、かほるは5歳。興行は松永4兄弟と礼子が運営していた。 「まだ後楽園ホールみたいな大きな会場なんかで興行を打てなくて、公民館とかを細々と回ってたと思う。社員なんか雇えないから、切り盛りしてたのは身内ばっかりだ...
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女子プロレスはストリップ劇場の余興から始まった
──1968年に松永4兄弟(健司=次男、高司=三男、国松=四男、俊国=五男)が全女を創設。中には4人を名前にちゃん付けで呼ぶ選手もいた。国松は、レフェリー「ジミー加山」としてリングに立っていたので、ジミーさんと呼ぶ選手も多かった。兄...
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長与千種との「髪切りデスマッチ」でダンプ松本の“影武者”としてデビュー
ダンプ松本の自伝的ドラマ「極悪女王」(Netflix)で注目を浴びた女子プロレスをスポーツ興行にした立役者・松永4兄弟の姪で創業から解散までのすべてを知る、松永家最後の生き証人が「全女」を語る。 ◇ ◇ ◇ ─...