五木寛之 流されゆく日々
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連載10522回 ラジオを聴きながら <5>
(昨日のつづき) TBSの『五木寛之の夜』は、私の番組としてはいちばん長く続いた番組だろう。 番組が終ったのは、提供会社のカネボウが大変な状況におち入ったからだ。スポンサーを変えて番組を続けよ…
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連載10521回 ラジオを聴きながら <4>
(昨日のつづき) 昔のTBSは小ぢんまりした社屋で、いまのように警備も厳しくなく、アットホームな感じだった。ビルの向い側にアマンドという喫茶店があり、打ち合わせの関係者や出演者でにぎわっていた。 …
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連載10520回 ラジオを聴きながら <3>
(昨日のつづき) ラジオ関東は、当時(1960年代)最もトンガったラジオ局だった。『ポート・ジョッキー』や『森永エンゼルアワー』などの人気番組とともに、夜のフリー・トーク番組『きのうの続き』は、た…
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連載10519回 ラジオを聴きながら <2>
(昨日のつづき) 当時のラジオからは、国民歌謡と呼ばれた戦意昂揚歌が、つぎつぎと放送された。 『海ゆかば』はもちろんのこと、『愛国行進曲』や『愛馬進軍歌』、『加藤隼戦闘隊』その他、無数の歌が大流…
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連載10518回 ラジオを聴きながら <1>
平成もやがて終ろうとしている。新しい年号が何になるかはわからないが、一つの時代が過ぎていくことはまちがいない。 私は昭和の子である。平成の時代にあっても昭和歌謡を口ずさみ、昭和の歴史に関心を抱い…
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連載10517回 「心の相続」とはなにか <5>
(昨日のつづき) 私たちが家庭や両親から相続するのは、モノや資産だけではない。無形のさまざまなものを受け継ぐのである。 私たちは書物やメディアを通して、明治から大正、そして昭和の時代を知ること…
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連載10516回 「心の相続」とはなにか <4>
(昨日のつづき) 私が両親から相続したものをふり返ってみると、まだまだいくらでもある。 たとえば、私の喋り方は形の上では共通語であるが、アクセントやイントネーションはまったくの九州弁だ。正確に…
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連載10515回 「心の相続」とはなにか <3>
(昨日のつづき) コンビニで週刊誌を見ると、やたら相続の記事が目につく。 どうやら「孤独」の後は「相続」がジャーナリズムの次の焦点であるらしい。 ところで、私の両親は共に学校教師だった。母…
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連載10514回 「心の相続」となにか <2>
(昨日のつづき) 私は昔から魚の食べ方が下手だった。魚料理は好きなのだが、食べ終えた皿の上を見て気恥かしい思いをするのが常だった。 魚の残骸というか、骨や皮や頭や尻っぽがグチャグチャになって、…
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連載10513回 「心の相続」とはなにか <1>
最近、ふしぎなところから、しきりと講演の依頼がくるようになった。 これまでほとんど縁のなかった分野の業界である。経済団体とか、新聞社・雑誌社の経営セミナーとか、ときには信託銀行などの企業だ。 …
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連載10512回 未知の領域を旅する <4>
(昨日のつづき) 高齢者の特徴の一つは、おおむね無口になることだ。 無表情というのも、よくあるケースである。冗談を言っても笑わない。反応が鈍いというか、われ関せずといった感じである。 また…
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連載10511会 未知の領域を旅する <3>
(昨日のつづき) 年をとった人たちの話には、病気と孫の話題が多いのが定番だと言われている。 たしかに老人同士の会話だと、同病相い哀れむというか、健康問題は共通の話題だろう。 しかし、世代の…
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連載10510回 未知の領域を旅する <2>
(昨日のつづき) 人生百年時代の最大の時期は、やはり何といっても75歳からの25年間だろう。 これまで、古来希ナリとされていたこの25年を、どう生きるか。それが問題なのだ。 そんな歳じゃね…
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連載10509回 未知の領域を旅する <1>
若いころは、知らない国を旅するのが刺戟的だった。 言葉もちがう。習慣もちがう。肌の色もちがうし、マナーもちがう。まったく未知の領域に足を踏みこむスリルがたまらなく楽しかった。 いま、この年に…
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連載10508回 玄冬の門を過ぎて <5>
(昨日のつづき) 以前にこのコラムで書いたことがあると思うが、奇妙な言葉がある。 〈ヒステリア・シベリアーカ〉 というのがそれだ。 いかにも、もっともらしい用語だが、これは誰かが勝…
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連載10507回 玄冬の門を過ぎて <4>
(昨日のつづき) 気持ちが沈んでなんともいえない暗い感じになってくるのを、どう言えばいいのか。 一般に鬱状態などという。憂愁という表現もあるが、少しちがう。 憂は何かはっきりした理由があっ…
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連載10506回 玄冬の門を過ぎて <3>
(昨日のつづき) 高齢化とともに訪れてくるのが、ある種の鬱の状態である。 若い時期にも、しばしば心の不安定な状態はある。むしろ青年期の不安のほうが話題になるくらいだ。 しかし、50歳を過ぎ…
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連載10505回 玄冬の門を過ぎて <2>
(昨日のつづき) 玄冬の季節に入って、なによりも明きらかになってきたのは、<からだ>の問題である。 気力や記憶の衰えは、それほど気にはならない。しかし体の不具合いは、日常の不自由なのだ。 …
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連載10504回 玄冬の門を過ぎて <1>
ようやく86歳になった。 ようやく、というのは、本人も予想もしていなかった年齢なので、はるばるも来つるものかな、という感慨があるのだ。 学生時代は、自分がこの年まで生きようとは、考えてもいな…
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連載10503回 ひさしぶりに柳川へ <4>
(昨日のつづき) 柳川といえば、北原白秋、そして白秋の少年時代の友人であった中島鎮夫のことを思い出さないわけにはいかない。 中島鎮夫はペンネームを白雨といった。 二人の友情がどういうもので…