五木寛之 流されゆく日々
-
連載11674回 遠近法の揺らぎ <3>
(昨日のつづき) 私がはじめてスペイン戦争について文章を書いたのは、1960年代の半ばごろだった。 当時、金沢の古書店で戦前の総合雑誌『改造』のバックナンバーを買いこんだのは、1930年代のス…
-
連載11673回 遠近法の揺らぎ <2>
(昨日のつづき) 私たちが過去の話をするとき、意識せずに時間の遠近法がはたらく。大正期の話題であれば、思考のレンズの焦点を少しずらして、その時代背景のなかにはめこむ。いま現在の問題であれば焦点を現…
-
連載11672回 遠近法の揺らぎ <1>
このところ、何となく世の中が歪んで見えるようになってきた。 と、言っても、視力の問題ではない。わが国をはじめ、世界全体が大きくデフォルメして感じられるのだ。 これまで大問題のように感じられて…
-
連載11671回 私、川柳の味方です <5>
(昨日のつづき) 若い頃、津軽を訪れて、竜飛岬へいったことがある。 まだ青函トンネルなどできていない頃だった。風のつよい曇った日で、ひどく荒涼とした風景だった。 そこに石の句碑があって、川…
-
連載11670回 私、川柳の味方です <4>
(昨日のつづき) ある時期から、ポプラ社が出している『サラリーマン川柳』を愛読するようになった。 毎年、待ちかねて読む。 最近、なんとなくボルテージがさがった感、なきにしもあらずだが、それ…
-
連載11669回 私、川柳の味方です <3>
(昨日のつづき) 俳句に関しては、そもそもその程度の門外漢でしかなかった私が、何度か俳句界関係の集りに呼ばれて話をしたことがあるのは、まあ、一種の人寄せパンダ的な趣向だったのだろう。 しかし私…
-
連載11668回 私、川柳の味方です <2>
(昨日のつづき) 両親がともに学校教師という共働きの家に育ったため、私は幼い頃から独りで家にいることが多かった。 市街地からはポツンと離れた、一軒家の官舎である。周囲には遊び友達もいない。自然…
-
連載11667回 私、川柳の味方です <1>
新聞読者の減少が噂されている昨今だが、私個人に関していえば、最近のほうが丹念に新聞を読むようになった。 なぜだろうと考えてみる。たぶん昔よりテレビを見なくなったことが原因かもしれない。 どこ…
-
連載11666回 写真との落差に閉口 <4>
(昨日のつづき) 新聞や週刊誌とちがって、一般の月刊誌は、取材から掲載までにかなりのタイムラグがある。 今年になって困ったのは、90歳の壁をこえたと同時に始まった髪の毛の変化だった。 毛髪…
-
連載11665回 写真との落差に閉口 <3>
(昨日のつづき) 外地から引揚げてきたときは、家族や自分の写真は一枚もなかった。 文字通り着のみ着のまま、命からがらで帰国したのだ。 いま私の手もとにある家族の写真は、その後、いろんな人か…
-
連載11664回 写真との落差に閉口 <2>
(昨日のつづき) 以前からそうだったのだが、単行本を出すとき、やたらと本人の写真を使いたがるのは版元のほうである。 広告はもちろん、本のオビからチラシなどにいたるまで、著者のポートレイトが多用…
-
連載11663回 写真との落差に閉口 <1>
名古屋での講演会の楽屋で、石原良純さんご夫妻にお目にかかった。同じ講演会の講師の一人として参加されていたのである。 父君の石原慎太郎氏とは、文藝春秋本誌の対談で話し合ったほか、グラビアの撮影で何…
-
連載11662回 ギャンブルと私 <5>
(昨日のつづき) 私が阿佐田哲也こと、色川武大さんと知り合うことになったのは、1966年の春のことだ。 私が『小説現代』の新人賞をもらってデビューした年のことだから、よくおぼえている。 当…
-
連載11661回 ギャンブルと私 <4>
(昨日のつづき) 馬券を買わずに競馬場へいって何が面白いのか、と笑われても、答えようがない。 ただ競馬のスタンドで、熱狂する群集に囲まれてレースを見ていると、なぜか気持ちが落ちつくのだった。 …
-
連載11660回 ギャンブルと私 <3>
(昨日のつづき) 私がはじめて国内の競馬場へ足を踏み入れたのは、20代の半ば頃のことだろうか。 大学を横に出て(中退のこと)、マスコミの最底辺で、くず拾いのような仕事をしていた時期だった。 …
-
連載11659回 ギャンブルと私 <2>
(昨日のつづき) 私がはじめて賭けごとに手を出したのは、敗戦後のことだった。平壌の大同江という河のほとりのセメント工場の倉庫に、家族で難民生活を送っていた頃のことだ。 そこには満州から国境をこ…
-
連載11658回 ギャンブルと私 <1>
昨夜、芝の増上寺の前を通りかかったら、なにやら大変な人出である。浴衣姿の外国人客などもいて、田舎のお祭りのような雰囲気。 なにごとだろうと立て看板を見たら、七夕という文字が見えた。 増上寺は…
-
連載11657回 作詞家としての親鸞 <5>
(昨日のつづき) 言葉の力というものがある。それは活字とはちがう。声が重要なのだ。 前回、述べたように<詩>は言葉である。そして<詞>は曲をともなって命を得る。 詩人と作詞家とはちがう。詩…
-
連載11656回 作詞家としての親鸞 <4>
(昨日のつづき) 親鸞は晩年、数多くの歌(和讃)を書いた。 和讃とは仏教上の数々の仏や先徳・高僧の遺徳をたたえる宗教歌である。 わが国における讃美歌、ゴスペルソングのようなものと言っていい…
-
連載11655回 作詞家としての親鸞 <3>
(昨日のつづき) 今様(いまよう)にもいろんな種類があった。 〽ちかごろ都に流行るもの―― と、跳ねるような調子の歌は、当時の伊達男のトップファッションをうたうラップみたいなものだ。 ま…