五木寛之 流されゆく日々
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連載11881回 時代とズレた生き方 <1>
時代はすごい速さで変化していく。 世の中が変るのは当り前だが、最近はそのスピードがメチャクチャ速いのだ。 「そうですかねぇ」 と、若い友人が首をかしげて、 「時代が速く変化するというより…
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連載11880回 一にケンコー、二にゲンコー <5>
(昨日のつづき) 小説雑誌はなやかなりし頃は、当時の流行作家に原稿を書かせるのは大変だった。 ホテルや社の個室に押しこめて、いわゆるカンヅメ状態にして書かせるのは定番だが、そこから抜け出してい…
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連載11879回 一にケンコー、二にゲンコー <4>
(昨日のつづき) 私が『小説現代』の新人賞をもらって、原稿が雑誌に掲載されたのは1966年の春である。 原稿はエンピツ書きだった。 書いては消しゴムで消して書き直し、一字一字、律義な読みや…
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連載11878回 一にケンコー、二にゲンコー <3>
(昨日のつづき) かなり以前のことになるが、通信販売で、こんな目録が送られてきたことがあった。 <有名作家の直筆原稿/書き込み、校正赤字アリ。状態良好、価格○○○円。希少価値> そして生原稿…
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連載11877回 一にケンコー、二にゲンコー <2>
(昨日のつづき) <一にケンコー、二にゲンコー> とは、作家として期待されながら、病に倒れたIさんが葉書に書いて送ってくれたフレーズである。 病床からの便りだっただけに、切実感があった。 …
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連載11876回 一にケンコー、二にゲンコー <1>
半世紀あまり、<日刊ゲンダイ>の読者兼筆者としてすごしてきた。 最近のゲンダイ紙は、以前よりはるかに充実してきている感がある。 お世辞ではなく、読むべき記事が多いのだ。<90歳の壁>をこえた…
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連載11875回 歩行の技法を考える <5>
(昨日のつづき) <ホモ・モーベンス> 人間は歩く動物である。いかに近代社会が技術化されても、否、技術化されればされるほど人間は歩くことに執着する。 歩くことをやめた人間は、夢の中でも歩く。…
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連載11874回 歩行の技法を考える <4>
(昨日のつづき) 昔、といっても昭和の前期、つまり戦前、戦中のことだが、陸軍には歩兵という兵種があった。 要するに軍の中核をなす部隊である。文字どおり歩く兵隊だ。 近代の軍隊では兵士は軍用…
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連載11873回 歩行の技法を考える <3>
(昨日のつづき) 杖を使うようになってから、もう何年かが過ぎた。 いまでは、杖は、すでに体の一部だ。杖なしでは、ほとんど歩けないのが現状である。 杖といい、ステッキといい、古くから人々は杖…
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連載11872回 歩行の技法を考える <2>
(昨日のつづき) <技法>などと小洒落た題をつけたが、これは昔、大学生のあいだで<ナニナニの技法>などという本が流行ったのを真似したイタズラである。 医学理論も全く無視した勝手な体験記だから、常…
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連載11871回 歩行の技法を考える <1>
私が左脚に問題をかかえるようになってから、どれくらいたつだろう。 20、30年、いやもっと以前から脚部に異常を感じていた。 戦後70年あまり、病院にいかないことを自分に課してきたのだが、周囲…
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連載11870回 批評としての歌謡曲論 <4>
(昨日のつづき) 昨年から『文藝春秋』誌で準備中の『昭和万謡集』の計画は、少しずつ進んでいる。各界の識者がたへのアンケートは、意外なほど多くの反響があった。 次の予定は、昭和の歌謡曲をめぐる各…
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連載11869回 批評としての歌謡曲論 <3>
(昨日のつづき) おおまかに分けて、流行歌には4つのタイプがあるようだ。 一つは、ある時代に大ヒットし、その後もながくうたわれるもの。 もう一つは、一世を風靡し、大流行するが、意外にはやく…
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連載11868回 批評としての歌謡曲論 <2>
(昨日のつづき) 私は歌謡曲が好きだ。 歌謡曲、というより、流行歌といったほうがいいのかもしれない。 いわゆるエンカ系の歌、ということでなく、ジャズも、ラテンも、シャンソンも、またポップス…
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連載11867回 批評としての歌謡曲論 <1>
最近、いわゆる<昭和歌謡>をめぐる論議が活発化している。 新聞や雑誌などでも、それに関する文章がよく見られるし、単行本として刊行されているものも少くない。 『続・昭和街場のはやり歌』(戦後日本…
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連載11866回 作詞家としての親鸞 <6>
(前回のつづき) 親鸞について書かれた文章は、山のようにある。 それこそ難解な論文から通俗的な解説書まで、親鸞ほど多くの関係書が書店に並んでいる宗教者はいないだろう。 だが、この『作詞家と…
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連載11865回 作詞家としての親鸞 <5>
(昨日のつづき) 善人と悪人とを区別するのは、戒を守ること、布施をすることができるか、できないかにあった。 これは、わかりやすい言い方をすれば、金持ちか貧乏人かの差である。当時の一般庶民は、ほ…
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連載11864回 作詞家としての親鸞 <4>
(昨日のつづき) 今でもそうかもしれないが、平安時代の人間観は、社会的な立場から判断されていた。 たとえば打ち続く天災、旱魃、凶作、戦乱などで土地を離れ、流民として京の都に流れこんだ民衆は、ま…
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連載11863回 作詞家としての親鸞 <3>
(昨日のつづき) 俳句や和歌に形式があるように、<今様>にも決まったスタイルがあった。 テーマは自由だ。 宗教歌のような歌も多く、<法文歌>と呼ばれる。 旅の歌もある。名所旧蹟を紹介す…
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連載11862回 作詞家としての親鸞 <2>
(昨日のつづき) <今様>については、このコラムでも何度も書いたし、また対談や講演などでも繰り返し喋っているので、手短かに紹介しておく。 <今様>というのは、読んで字のとおり、当世風ということだ。…