父・角栄をおもえば
-
<第15回>一度だけ母と3人で撮影した写真
父、角栄のことが話題になりますと、決まって聞かれることがあります。「お父さんとあなたの関係は実際のところどうだったの?」――。子供の頃は「父親が田中角栄だ」という認識はまったくありませんでした。 …
-
<第14回>怒られたのはたった一度 力任せの往復ビンタを何回も
父、角栄に泣かされたことが一度、また、泣かせたことも一度だけあります。普段はいつもニコニコと優しい父でした。子供の頃から、成人して大人になるまで叱られた記憶がまったくありません。たった一度だけのあの…
-
<第13回>中国に拘束されている駐在員5人を奪還
父・角栄が逝ってから、それまで知ることがなかった父の姿を知る方々との出会いがありました。 鈴木正信氏のご子息との出会いもそうです。鈴木氏は1968年2月、対中貿易の友好商社、日華貿易興業の駐…
-
<第12回>「周恩来は細いのに握手した時に何倍もの力で握り返してきた」
日中国交回復を成し遂げて日本に帰国してから数日後、神楽坂の家へ帰ってきた父は、母と私と弟を前に開口一番、こう話しました。 「お父さんは無事、日本に戻ってこられた。これもおまえたちのおかげだ。心…
-
<第11回>訪中前夜に熱く語ったこと
父、角栄は豪放磊落と受け取られていますが、内面には緻密で繊細な神経を秘匿していました。後に金脈問題で騒がれた時は顔面麻痺を発症させています。 日中国交回復に臨んで、勇躍北京に降り立った夜も釣…
-
<第10回>「荒療治は自分でなければできない」という信念
「決断と実行」の政治家といわれた父、角栄の最も大きな決断は何であったのでしょうか。私は1971年7月の第3次佐藤栄作改造内閣での通商産業大臣への就任だったと考えます。 この年の4月に行われた統…
-
<第9回>戦争体験を聞くと「切ないねえ」とポツリ
父、角栄が日中国交回復に取り組んだ原点に自らの戦争体験があります。角栄は1939年3月、21歳の時、盛岡騎兵第3旅団第24連隊に徴兵されました。部隊の任地は満州、今の中国東北地方でした。 こ…
-
<第8回>「殺されることになるかもしれないが、それが使命」
政治家は国のために命を捨てるのが仕事――、父が口癖のように言っていた言葉です。その覚悟をまざまざと知らされたことがあります。 1972年、総理に就任し、日中国交回復の交渉に中国に行く前夜のこ…
-
<第7回>新潟県議が「竹下先生にオヤジの真意を話したら泣いた」と証言
この雪の季節になると思い出すことがあります。ある冬の日、山形の温泉に友人と出かけて雪見酒としゃれました。 東京に戻ってそのことを父に話しました。すると父は「雪見酒なんて簡単に口にするな。雪国…
-
<第6回>「流した汗は決して嘘をつかない」の哲学
父・田中角栄は常々「政治家の仕事は後継を育てること」と公言していました。のちに竹下派の七奉行(橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、小沢一郎)といわれる有力政治家を育てましたが…
-
<第5回>「どんな境遇におかれ、つらい思いをしても天も地も人も恨まない」
国内外に多くの政治的課題を抱えながら、40%台の国民の支持を受けている安倍総理は、父・安倍晋太郎と祖父・岸信介の存在を抜きにして語ることはできません。注目を浴びている小泉進次郎氏も父・小泉元総理があ…
-
<第4回>政治は命懸けでするものと子供の私に刻印
安倍総理は持病を克服されて、政務に励まれていますが、父、田中角栄も子供の頃から吃音で悩んでいました。演説をするときは片足をぴょんぴょんと動かしながら、ダミ声で話しましたが、貧乏ゆすりのように片足を動…
-
<第3回>親父、あなたを殺したのは私です。許してください
父、田中角栄は総理の座を追われた後も、140人の国会議員を率いる最大派閥を背景に、大きな政治力を持ち続けました。マスコミはその後に続いた内閣を、「角影内閣」と揶揄して、いつまでも国政に影響力を持ち続…
-
<第2回>死去の際は門前払い 騒いだら父の顔に泥を塗る
このところ、中国でのPM2・5による大気汚染の日本への影響が何度も報道されています。しかし、日本がそうだったように中国もいずれ克服するに違いありません。 60年代の高度成長時代の我が国の環境…
-
<第1回>田中角栄と辻和子の間に生まれ、齢64
私は1951年8月15日、終戦記念日と同じ日、父、田中角栄と神楽坂に住んでいた母、辻和子の間に長男として生まれました。現在、齢64になります。私の下には6歳違いの弟の祐がいます。 昨年、共同…