マラソン日本の終焉
-
<第10回>ビジョンないまま東京を迎えてもリオの二の舞い
マラソンの原点は、「走る楽しさ」でしょう。遠くまで走っていけるだけでいい気分です。市民ランナーには、記録を気にしないで走って欲しい。 マラソン中継でラップを細かく解説していますが、一般の視聴…
-
<第9回>暮れの五輪選考レースは3月にもう始まっていた
ヘルシンキのワールドゲームで1万メートルの日本記録を作ったのは87年7月でした。ソウルオリンピック前年で、どうしても瀬古利彦さんの記録、27分42秒を破っておきたかった。 ソウルの代表選考は…
-
<第8回>記録会のタイムは“加工品”だから世界で通用しない
マラソンに方程式はありません。違うコース、長い距離を自分の足で走るんですから、自分で自分の方法を探すしかないんです。素質が違えば教科書はただの参考書だし、日本の教科書が世界に通用するワケでもない。で…
-
<第7回>市民ランナーじゃないぞ、音楽を聞きながら走るな
故郷の長野で、精神的には鍛えられましたね。 富士通長野工場陸上部のリーダーだった牧野義夫さんは、競技の実績はありませんでしたが、考えるヒントを与えてくれました。牧野さんが選手の要求を会社に頼…
-
<第6回>21歳で結論 打倒・瀬古利彦には“つま先走法”
ぼくが入った頃の富士通長野工場陸上部は、同好会で(陸上部員としての練習時間や食事など特別な)待遇はゼロでした。 定時に磁気ディスクを磨く仕事をやって、給料は10万円でした。家にも入れなければ…
-
<第5回>ケニアの選手を見ていると“あの2年間”を思い出す
育ちは長野県池田町です。実家は農家で貧しかったけれど、みな似たり寄ったりですから、特別に貧しいとは感じませんでした。父親は新しい農機具やテレビなど、自分が欲しいものは次々に買うんですが、家族の楽しみ…
-
川内君にも高いハードル 誰でもいいからコーチは必要だ
ソウルオリンピック後に、日本陸連が、中山にはコーチをつけないとダメだとダイエーの中内功社長に進言して、「日本陸連終身コーチ」という肩書を持った高橋進さんがダイエーに来ました。 コーチが必要と…
-
<第3回>秋から冬の競技なのに夏を最大目標にする本末転倒
ぼくのマラソンデビューは1983年12月の福岡国際マラソンでした。この年はロサンゼルスオリンピックの代表選考会で、瀬古利彦さんが優勝して、宗茂さん、宗猛さんと続き、理想的な代表選考といわれた大会です…
-
<第2回>「自分はプロ」と言ったらコーチに叱られた
ぼくらと今の選手たちの一番の違いは、プロ意識だと思います。 ぼくは、自分はプロだと思っていましたから。瀬古利彦さんも、宗茂さん、猛さんたちにしても、80年代のマラソン選手はみな、自分はプロだ…
-
<第1回>自己表現がなければこれほど面白くない競技はない
オリンピックはそこそこテレビ観戦で楽しみました。水泳、体操、卓球など面白かったし、選手の努力や工夫も伝わってきました。日の丸とか関係ないなんて言うと叱られますが、愛国心を言われても選手は困ります。国…