ジャングルジムとチューリップ
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(32)もう、取り返しがつかない
幻聴と戦う間にも、痛みは着実に強くなっていった。初産とは、もっと時間がかかるものではないのか。母体が若いと進みが早まるのか。判断がつかない。だが痛みの間隔は狭くなっている。さすがに産院に電話しなけれ…
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(31)拓也が真っ赤に染まって見える
拓也にしてみれば、相手は誰でもよかったのだ。 事実婚に諸手を挙げて賛成し、彼の家族にさほど興味を持たず、またインターネットの掲示板やSNSを積極的に見ようとしない女性という条件を満たせば、別…
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(30)彼は理性の皮を被った怪物
「何だよその目は」 「たっくんこそ何なの、物に当たるのはやめてよ!」 「俺を軽蔑するんだな。彩絵がそんな思考停止した人間だとは思わなかったよ」 「だったら最初から打ち明ければよかった…
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(29)夫が縋るように手を伸ばす
「もう一歩踏み込んだ分析をするならば、俺があんなことをしでかしたのは、間違いなく親のせいだろうね。彩絵が──ほら、小学校で問題児にいじめられた話をするときなんかにさ、ご両親の受け売りなのか、よく口癖の…
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(28)火災殺人の犯人は13歳の少年
中学の途中から不登校。高卒認定試験合格後に浪人し、大学へ。 彼が語っていた経歴の半分は本当で、半分は嘘だったのだと、言われて初めて気づく。 インターネット検索で表示されたのは、掲示板…
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(27)深い絶望と憤怒が血管を巡る
耳元では、驚いた調子の拓也の声が響いていた。通話終了ボタンも押さないまま、スマートフォンを無言でソファへと放り投げ、ダイニングテーブルに突っ伏す。 声はしばらくの間、遠くでかすかに聞こえてい…
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(26)御門琢哉の検索結果は──
夫の過去に、他の女の影などなかった。それ自体は朗報だ。 しかし、どうにも不自然さが拭えず、手放しに喜べない。御門琢哉という氏名が、彼はそんなに嫌いだったのか。別にキラキラネームというわけでも…
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(25)茶封筒を持つ指先が大きく震える
それだけは絶対に避けたかった。小学校高学年のときに彩絵を攻撃してきたいじめっ子らのことも、両親はよく「蛙の子は蛙だから」と言っていた。苦しんでいる彩絵を救おうとして発した言葉だったのかもしれないが、…
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(24)拓也の除籍謄本がまだ届かない
* 「……やっぱり最近、体調悪いんじゃない?」 靴べらを手にした拓也が、整った眉を寄せ、こちらの顔を覗き込むように身を屈めた。彩絵はドキリとして、そばの白い壁に指先を這わせる。 …
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(23)夫は誰かのお下がりだったのか
義理の両親の氏名など、今まで気に留めたこともなかった。当然、苗字は佐藤だと思っていた。自分たち夫婦の関係性からして、義理の両親と嫁が直接連絡を取ることなどないため、スマートフォンで連絡先の交換もした…
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(22)「戸籍事項 転籍」の文字
結婚するときには婚姻届を出さず、住民票の手続きしかしていないため、彼は彩絵と同様、未だ両親の戸籍に入っているはずだった。都道府県と市区町村選択の画面で拓也の実家がある自治体を選び、投入口に硬貨を入れ…
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(21)書類を取得するくらい妻の私が
しかし、拓也はこのごろ仕事が忙しいのか、なかなか重い腰を上げようとしなかった。「出産後に俺がまとめて申請するから大丈夫だよ」と言いながら新作ゲームにいそしんでいる彼の尻をしつこく叩き、すぐそこのコン…
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(20)産休で時間を持て余してしまう
連れ立ってマンションに入り、ひんやりとした内廊下を進んだ。妊娠九か月の彩絵のためにここまで荷物を運んでくれた母は、ブランド名が印字された大きな紙袋を玄関に置くと、「またいつでも呼んでね」と彩絵のはち…
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(19)ベビー服店に目が吸い寄せられる
* 「拓也さん、また出張なの?」 黒い日傘に黒いアームカバーという出で立ちで隣を歩く母が、わずかに顔をしかめた。彩絵も同じように真夏の日焼け対策をしているが、色合いはホワイトでまとめ…
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(18)案外、拓也はそそっかしい
「……ごめんね、たっくん。趣味を否定するようなこと言って。ちょっと私、偏見に引きずられてたかも」 「いやいや、俺も偉そうにごめん。人の親になるんだから、教育的観点で物事を捉えるのは大事だよな。い…
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(17)夫への酷な要求を後悔
「どうして規制ありきなの? ゲームと一口に言っても、いろいろな種類があるよね。脳のトレーニングに役立つパズルゲームもある。日本史の理解が進むシミュレーションゲームもある。雨の日でも室内で運動ができるフ…
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(16)ゲームってそんなに楽しい?
帰り道にマウンテンバイクに乗った小学生にあわや衝突されかけ、気が立っていたのもあるかもしれない。いつもなら趣味の邪魔をしないようにそっとしておくのだが、カップにまだ半分ほど残っているコーヒーを飲みな…
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(15)親友を彼氏に取られた気分
「ねえ、子どもが生まれたらさ、俺らのこと、何て呼ばせる?」 「うーん、『お父さん』『お母さん』じゃない? もし呼びにくそうにしてたら、小さいうちだけは『パパ』『ママ』にするとか」 「さっき…
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(14)二人きりで過ごす時間が愛おしい
実を言うと、結婚相手である拓也も、彩絵と同じいじめの被害者だった。彼が受けた心の傷は当時の彩絵より深く、中学の途中から完全に不登校になってしまい、高卒認定試験を経て大学に進学したのだという。一年浪人…
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(13)問題児が暴れ、学校に警察が
それでも彩絵は、歯を食いしばって学校に行っていた。両親に心配をかけたくはなかったし、第一志望の中学は受験資格に小学校の出席日数の項目があるため、あんな卑劣な奴らのせいで受験のチャンスを棒に振るのは避…