「マエケン物語」 両親が明かすルーツ
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<最終回>渡米直前、送別会で渡されたプレゼント
06年7月29日、前田たち3年生が夏の予選の準々決勝で東大阪大柏原に敗れた試合後のことだ。 当時監督だった藤原弘介は、3年生の阪上直也と小原大輝を連れて学校近くのコンビニに出かけた。部員一人…
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<第39回>担当スカウト「スッピンでも色気があった」
「ベッピンさんや……」 灼熱のPLグラウンドで、背広にネクタイ姿の男が玉のような汗を流しながら、前田の練習を見守っていた。当時の広島の関西担当スカウト・宮本洋二郎である。 06年5月、…
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<38>「マエケン体操」誕生秘話
「もうちょい手元で伸びてこないと、桑田にはなれんぞ!」 前田の投球練習時、臨時コーチの清水孝悦の声がブルペンに響き渡った。今は藤井寺で寿司店を営む清水は、84年には捕手兼主将として春夏甲子園で…
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<37>「よく投げた。でもおまえが抑えたわけじゃない」
「最後まで責任を持ってボールを確認しろ!」 当時、PL学園監督だった藤原弘介は前田を叱り飛ばした。練習試合で外野フライの捕球を確認せず、マウンドを降りようとしたからだ。藤原は技術や配球に加え、…
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<36>藤井寺球場に「神風」が吹いた
「強い風が吹いていたのを覚えています」 こう語るのは当時、PL学園野球部長だった西川宏郎だ。 前田が1年生だった2004年7月31日。藤井寺球場で大阪桐蔭との決勝再試合が行われた。前日…
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<35>先輩のハムをこっそり頂戴してもなぜか見つからず
「絶対バレるなよ」 PLの1年の時だ。前田は先輩の身の回りの世話を終えた深夜、幼馴染みの仲谷龍二ら総勢5人で小遣いを握りしめ、寮を抜け出した。 向かった先は学校近くの外環状線沿いにある…
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<34>寮生活スタート 洗濯機とドライヤーは“争奪戦”
当時はまだ、「付き人制度」の名残があった。 PL学園に入学した前田は、中高の一般生と同じ4階建ての金剛寮に入った。グラウンドに隣接する研志寮はすでに野球部専門の寮ではなかった。 1年…
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<33>高校時代編 「実績なんかクソ、全部捨てろ!」の意図
前田が中学3年のとき、当時のPL学園野球部長で現富田林市議会議員の西川宏郎は、初めて本人と対面した。忠岡ボーイズ監督だった阪川英次はPL出身で西川の教え子だった。そんな縁もあり、それまで複数の選手が…
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<32>PL、横浜、青森山田…全国30校による大争奪戦
「もう決まりやな……」 大阪の強豪校の監督たちは苦笑いを浮かべ、忠岡ボーイズのグラウンドを後にするしかなかった。 前田を巡っては、中学2年のころから争奪戦が繰り広げられた。3年の夏、全…
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<31>「世界一」の中学生になって米国へ
「めちゃくちゃ凄いな」 中学日本代表として「世界少年野球大会」の決勝戦で先発し、5番を打った前田は、ブラジルの先発ペレイラの140キロを超える速球や、2メートル近い巨体でバットを振り回す打者に…
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<30>中3で初海外 過酷なブラジル遠征もへっちゃら
初めての海外は、地球の裏側にあった。 03年8月7日、中学3年生の前田は名古屋空港からブラジル・サンパウロに向かった。9つの国と地域から12チームが参加した「世界少年野球大会」に中学日本代表…
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<29>“最後の30勝投手”皆川睦雄さんからの金言
「あの子、なかなかええ球放るな」 老紳士がポツリとつぶやいた。 前田が中学2年のときだった。忠岡ボーイズで1年先輩の鶴直人(現阪神)に次ぐ、2番手投手に成長していたころ、前田が通う忠岡…
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<28>先輩・鶴直人に触発され球速が10キロアップ
「彼と比べたら『月とスッポン』でした」 こう語るのは、前田の父・治茂(52)だ。 忠岡ボーイズには偉大な先輩がいた。近大付高から2005年のドラフト1位で阪神に入団した鶴直人(29)で…
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<27>親友が明かしたイタズラの中身
忠岡ボーイズで野球漬けの日々を送っていた前田は、どこか物足りなさを感じていた。練習は充実していたし、チームに不満があったわけではない。小学生時代にバッテリーを組んだ親友の仲谷龍二が同じチームにいなか…
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<26>中学時代編 走って走ってまた走った
「とにかくよく走っていました。自主的にポール間のランニングをするなど、常に体を動かしていました」 こう言うのは、当時の忠岡ボーイズコーチで現監督の門田義人だ。 中学生になった前田は、地…
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<25>「ケンタグラウンド」でつながる夢
前田は小学校時代に在籍した岸和田イーグレッツで、西日本ナンバーワンを決める「大鳴門橋学童軟式野球大会」(徳島)をはじめ、多くの大会でチームを勝利に導いた。負けたら終わりというトーナメント方式の試合の…
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<24>小6で逆方向へ狙い通りの本塁打を放った
「ライト側が空いてるやろ。そこを狙っていけ」 岸和田イーグレッツの当時の監督・吉元政孝がベンチから打席の前田に声をかけた。小学6年だった00年9月10日、阪南市長杯大会の決勝戦。試合の中盤、2…
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<23>「仲間を大事にしろ!」 父は尻を蹴飛ばして怒った
「自分が投げている試合で、たとえチームメートが守備でミスをしても、顔や態度に出すことはなかったですね」 こう語るのは、当時の岸和田イーグレッツコーチで現在、代表兼監督を務める今津孝介だ。 …
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<22>母・幸代は少年野球の裏方として何でもやった
前田の母・幸代(51)は岸和田イーグレッツ内で、率先して裏方に回った。小学6年のときには婦人部長に。手伝いをしてくれる父兄への連絡から、弁当、おやつの手配、OBの父兄のお茶くみなど何から何までやった…
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<21>足を骨折しながらマラソンを走り切った
「きれいな泳ぎでしかも速い。当時は、『忠岡のイアン・ソープ』と言われていました」 こう話すのは、前田の親友・仲谷龍二だ。前田は、野球以外のスポーツでも才能を発揮した。なかでも2歳3カ月から習い…