カープで34年 常勝軍団のつくり方
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法大4年秋 母から「父は胃がん」と告げられて本気になった
プロ入り前は大した実績もなかった。 鳴門高1年時は三塁手。後に近鉄、阪神に進んだ住友一哉さんがエースだった。当時の甲子園は徳島、高知で1枠。南四国大会決勝の相手は土佐だった。2点リードで九回…
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山本監督の「脳腫瘍の津田を優勝旅行へ」で7.5差を逆転V
津田恒実(享年32)が一目惚れした学生アルバイトのコンパニオンは電話番号を教えてくれなかった。津田は寮の夕食の焼き肉をつつきながら、「どうにかならん?」とまだ諦めない。すると森脇浩司が「そういや、『…
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シャイな津田は私に「電話番号を聞いて下さい」と粘った
「炎のストッパー」と言われた津田恒実(享年32)は私の1学年下。同級生には西田真二、白武佳久、金石昭人がいた。いつでもどこでも鍛えられるよう、鉄アレイを遠征の荷物の中に入れて運んでもらっていた。 …
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勝つために…大下ヘッドは球場の三塁線の傾斜まで調節した
1999年、春のキャンプ。私は一軍の投手コーチで、天候が雨の場合、他のコーチたちと朝の5時半ごろにグラウンド状態を確かめに行く。すると、すでに懐中電灯を持った人が来ている。 「おまえら、来るの…
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朝帰りを大下ヘッドに見られ九重部屋朝稽古へ連行された
1989年のシーズン中、名古屋遠征で川口和久、白武佳久、私で錦の繁華街に繰り出した。宿舎に帰ってきたのは朝方の3時半から4時ごろ。「鬼軍曹」と恐れられた大下剛史ヘッドコーチが起きる時間だ。この日は移…
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優勝祝賀会 美空ひばりさんの前で「愛燦燦」を歌ったら…
1986年のリーグ優勝は神宮球場で決めた。最後はストッパーの津田恒実が締めた。阿南準郎監督にエースの北別府学さんが「最後は津田でお願いします」と頼んだのだ。 津田は血行障害による中指手術から…
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練習の虫だった高橋慶彦さんは飲み屋にもバットを持参した
宮崎・日南での春季キャンプ中、高橋慶彦さんは、バットを持って油津に飲みにいく。もちろん振るわけではない。常にバットを触りながら感触を確かめているのだ。 「グリップの感触がおかしいんだよな。明日…
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度胸試しで“ホスト”役…歌舞伎町「クラブ愛」での安仁屋会
カープの投手コーチを長年務めた安仁屋宗八さん(74)は酒が強い。試合が終わると、東京、横浜、名古屋、大阪……で、先発しない7、8人の投手陣をネオン街へ連れていくのが日課だった。 後楽園球場で…
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投手タイトルを分け合う“約束”を中日に反故にされた
2年目の1985年のシーズン終盤、中日・小松辰雄に次ぐ防御率2位につけていた私は、安仁屋宗八一軍投手コーチにこう言われた。 「川端、おまえは新人王が取れる。だから防御率は我慢せえ。納得してくれ…
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山本浩二さんにキャンプ宿舎の部屋に呼び出され…
1985年、2年目の春のキャンプ中、山本浩二さんの部屋に呼ばれた。法大の先輩でもあり、酒でも飲ませてくれるのかと期待をしながら部屋をノックした。 「まあ座れ」 酒など出てくる雰囲気では…
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厳しさ知った衣笠さん「他の選手と仲良くするな」の意味
1983年のドラフト1位で入団した私は、初めての春のキャンプに乗り込んだ。 沖縄2次キャンプでブルペン入り。安仁屋宗八一軍投手コーチに「そこで投げろ」と言われた。空いていたのはエースの北別府…
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捕手の達川さんから「花粉症やから長く持て」のサインが
私が選手時代の話だ。 1983年ドラフトでカープに1位指名。期待に胸躍らせた1月の入寮の日、いきなりプロの洗礼を浴びた。 春のキャンプの荷造りのため、寮に立ち寄っていた捕手の達川光男…
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まだ高校生の前田智徳に伝家の宝刀を打ち返され成功を確信
午後6時からのナイターでも緒方孝市監督の球場入りは早い。朝10時には編成の部屋を訪れ、「川端さん、スコアラーはまだ来てないですか?」と言うものだから、スコアラーの朝も早くなった。 ホームゲー…
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金本の筋トレは二軍監督発案の幻の腕相撲大会がきっかけ
1998年のドラフト6位で指名された新井貴浩は、はっきり言って期待されていなかった。 私は一軍の投手コーチ。近くで見る機会が多かったが、守備面は「厳しいな」と感じた。春のキャンプでは新井にと…
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広島復帰会見前の新井貴浩は吐き気を催すほど緊張していた
黒田博樹は「投手は体幹を鍛えて投球フォームを常にコピーできるようにしないといけないんです」と言う。 アマチュア時代は根性系のランニング、腹筋、背筋などを課せられたという。メジャーを経てカープ…
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二軍戦10失点でも黒田のG戦デビューを進言した安仁屋監督
1997年の新人・黒田博樹のデビュー戦を思い出す。当時、私は一軍投手コーチだった。4月半ば、三村敏之一軍監督が「先発が欲しい。ファームに良い投手はいないのか?」と言った。私が二軍に問い合わせると、安…
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電波時計を見ながら交渉解禁日午前0時ちょうど内川に電話
横浜の内川聖一(現ソフトバンク)がFA宣言をする――。 2010年、カープは右の強打者が補強ポイントだった。私が法大1年の時、内川の父・一寛さんは4年生。副主将で大事にしてもらった。内川の母…
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松田オーナーの鶴の一声で決まった石井琢朗の獲得
「戦力外通告」は最もつらい仕事だ。カープ一筋50年以上の苑田聡彦スカウト統括部長が「私が見た中で一番うまいショート」と言う梵英心は、2017年限りで自由契約となった。野村謙二郎(前監督)を正遊撃手から…
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「給料は我慢したのに」と戦力外通告の選手に言われて…
「ここに友達をつくりに来ているんじゃないよ」 私がカープに入団した頃、大先輩の衣笠祥雄さん(享年71)に言われた言葉である。編成の立場で二軍の選手を前にミーティングすることがあると、いつもこれ…
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巨人とのトレード成立で木村拓也を連れて挨拶に行くと…
「あいつのために出してやれ」 編成の仕事のひとつにトレードがある。コーチから編成になったばかりの2006年、松田元オーナーにこう言われたのは木村拓也(享年37)のことだ。球界屈指のユーティリテ…