選挙応援に向かうジャンボ機で事故死した坂本九
当時、慶応の学生だった元マネジャーは空手3段の腕を見込まれ、ボディーガードを兼ね坂本のマネジャーを務めた。20歳そこそこの2人は24時間行動を共にし、互いを「あいつ」「ひさし(坂本の本名)」と呼び合う仲に。元マネジャーは3年ほどで実業家を目指して大阪に移ったが、2人の友情はその後も続いていた。
元マネジャーが事務所開きの応援を頼んだ時も「わかった。とにかくスケジュールを全部送れ」と快諾。大阪に来てもらうため、元マネジャーは3時半にNHK―FMの仕事を終える坂本のために、同機のチケットを手配したが、不運にもそれが事故とぶつかってしまった。元マネジャーは13日の事務所開きでは後援者を前に「私が……呼ばなければ……」と挨拶するのがやっとだった。さらに18日の告別式後には「直接、私のために九が死んだのではないといくら言われても、奥さんの気持ちは複雑でしょう」「奥さんには恨まれても仕方がない。今はただ冥福を祈るばかり」と心境を語った。
芸能関係者にも衝撃が走った。兄貴分のジェリー藤尾は「木に引っかかっても生きてるよ。今でもそう思ってる」。石倉三郎も「九ちゃんが死んだなんて信じたくないスよ」とコメントした。中村八大とともに六八九トリオと呼ばれた永六輔はマスコミからの電話取材をすべて断り、86年12月に追想本「坂本九ものがたり六・八・九の九」を出版した。