<35>森山大道さんが撮ったヌードに「やられた」と嫉妬した
森山さんは、オレより二つ歳上なんだよ。(森山大道 写真家、1938年生まれ)
森山さんに、やられたなぁ、きたなぁ、と感じたのは、やっぱり『写真よさようなら』。オレ、その頃に電通をやめたんだよね(1972年)。森山さんが『写真よさようなら』を出して、同じ出版社からオレの写真集も続けて出す予定だったんだよ。それで、よし、向こうが「写真よさようなら」なら、こっちは「写真よこんにちは」というぐらいの気持ちでいこうって。
自分でレイアウトもやって、1冊作ったんだけど、出版社が倒産しちゃったんだ。だから出せなかった。それから10年ぐらい経ってから、『東京エレジー』になったんだけどね(1981年刊写真集)。作っている途中で親父が死んで、死のほうへと変わっていったんだ。
(写真集『写真よさようなら』は1972年に写真評論社より刊行。「他人の写真やテレビなどの無原則な複写や、シャッター空落としのネガの切れっぱし」など「アレ・ブレ・ボケ」の極致とも言うべき写真群で構成され、何が写っているのか、何を写そうとしたのか判別がつかない写真ばかりが収録された。「写真とは何か」を追い求めた森山の大きな転機となった金字塔的写真集。巻末に写真家・中平卓馬との対談を収録。この写真集へのネガティブな反応が引き金となり、その後、森山は心身ともに憔悴し苦闘、写真から離れることとなる)
あんな“ブレ、ボケ”で…
森山さんの『写真よさようなら』と同じぐらいの本の大きさでさ、ドーンと出そうと思ってた。やっぱりね、嫉妬していたからね、『プロヴォーク』(写真同人誌)に。『プロヴォーク』で、森山さんが撮ったヌードを見て嫉妬したからね。だから、あっ、やられたなと。だってその頃さ、あんな“ブレ、ボケ”で、踏切を撮ったってなんだよって(笑)。やられたなってさ。
(森山は、『写真よさようなら』について、「とにかく当時、あの写真集を褒めてくれたのは荒木さんだけね。ほとんど誰も何の反応もしなかったしさ。デザイン的だとかってよく言われたけどね。本質的な部分であれが何なのかっていうことを一番最初に荒木さんだけがわかってくれた」と語っている)
(構成=内田真由美)