笑わせ続けて40年
-
<20>解散危機乗り越え「漫才師にとっては仕事がかすがい」
巨人 デビューから現在まで、僕らはわりと現役バリバリでやらせてもらってきましたけど、ホンマに大変動の時代を生きてきた気がします。世の中も、芸人の世界も吉本も随分と変わりましたからね。 阪神 最初…
-
<19>又吉が言うように命がけで漫才を作らなあかん
巨人 僕たちが漫才を始めた頃、最初に目指したのは海原かける・めぐる(現・池乃めだか)師匠でした。ちょうど「大きいのと小さいの」というコンビの感じが似ていたこともあって、まずはここに追いつき追い越そうと…
-
<18>“元祖筋肉芸人”の巨人と釣りを仕事につなげた阪神
それぞれプライベートでの楽しみは巨人がゴルフ、阪神は釣り。趣味が高じて仕事になったケースもあり、阪神が司会を務める関西ローカルの釣り情報番組「ビッグフィッシング」は31年の長寿番組となっている――。…
-
<17>76年歌手デビュー 音程が外れる阪神は「あ、こりゃ」だけ
人気漫才コンビとして舞台に立ち続ける一方、さまざまなタレント活動をしてきた2人だが、もともと歌手に憧れていたというオール巨人の“歌”への思い入れは特別なものがあるという――。 巨人 僕、実は歌…
-
<16>「有吉君は元弟子」謹慎中に猿岩石を組んで有名になった
明石家さんまを筆頭に、芸人仲間がしばしばネタにするのがオール巨人の“厳しい”師匠ぶりだ。かつては有吉弘行が弟子だったこともあったのだが――。 巨人 ずいぶん昔の話やし、あの頃はまさか有吉君が…
-
<15>目線や切り方が普通と違っていた「ダウンタウン」
2人がデビュー7年目を迎えた82年、吉本興業は芸人養成所NSCを創設する。多くのお笑い芸人を輩出することになるこの学校の1期生にはダウンタウンがいた――。 巨人 NSCには、僕らも一日講師とし…
-
<14>B&Bの東京進出で漫才ブームが始まった
巨人 さんまや紳助・竜介は同期やったから特に意識したけど、他にも僕らと年の近い漫才コンビがたくさんいました。もちろん先輩もいたりするんですが、友達というか、戦友みたいな感覚です。みんな昔からわりに仲は…
-
<13>浜村淳の生番組を「4回」もスッポかした明石家さんま
巨人 さんまとも同期でずっと仲はいいけど、若い頃は酒も飲まへんかったし、プライベートでは、毎晩、飲み歩いてた僕や紳助より、阪神君のほうがよう一緒に遊んどったよな。 阪神 お酒を飲まへん何人かでご…
-
<12>「隙間芸人を目指すんや」と研究分析し戦略を立てた紳助
巨人 吉本に入ったときに「世の中にはこんなオモロいやつらがおるんや」と驚いたのが明石家さんまと島田紳助でした。まだ無名やったけど、「こいつらは絶対売れるやろな」って思ったし、後で聞いたところ、この2人…
-
<11>漫才ブームでも東京に行けず関西の舞台に“出ずっぱり”
80年代初頭、嵐のように始まった漫才ブームを担ったのが関西の中堅・若手の漫才師たち。ザ・ぼんち、紳助・竜介、今いくよ・くるよと全国的にはまだ無名だった仲間たちが次々と人気者に。だが、2人は微妙なポジ…
-
<10>漫才コンビは「酒飲む派」「ご飯とギャンブル派」に分かれた
巨人 僕はこの世界に入ったとき、お酒は一滴も飲めなかったんです。ところが、ご存じのとおり弟子に入った岡八朗師匠はお酒が大好き。弟子の僕にも「飲めませんやて!? 飲めへんのやったら弟子やめてまえ!」って…
-
<9>「飲み行こか」ってつかまったら地獄やった
巨人 僕らがこの世界に入った頃、漫才のトップに立っていたのが横山やすし・西川きよし師匠です。もう劇場に来るだけで、うわっ! って思うくらい別格やったね。 阪神 おふたりが司会をしてた毎日放送の「…
-
<8>「一生漫才 頼むぞ」と書いた夢路いとし・喜味こいし師匠
巨人 弟子時代からたくさんの師匠方にかわいがってもらいましたね。よく覚えているのは、岡八朗師匠がレツゴー三匹師匠やチャンバラトリオ師匠と回った九州巡業に同行させてもらったときのことです。 当時…
-
<7>ネタで喧嘩になり阪神が“ノイローゼ気味”に
オール阪神・巨人は吉本に入ってすぐテレビ出演が始まり、その年の夏には京都花月の舞台にも立っている。デビュー早々、若くして実力を認められるようになった2人の“若手時代”は――。 巨人 最初の頃は…
-
<6>桂三枝師匠が名付けたのが「マネマネゴンスケ・マンスケ」
巨人 僕らのコンビ名って、実は自分たちで考えたものじゃないんです。僕の本名は「南出」、阪神君は「高田」で、アマチュア時代はそのまま「南出・高田」っていうコンビ名でやってたんです。 それが若者に…
-
<5>岡八朗師匠の車で事故を起こした時は大騒ぎになって…
巨人 僕たちが弟子入りした岡八朗師匠は、周囲からは厳しい、怖いといわれてましたけど、ホンマ優しい師匠だったんですよ。お金にもきれいで、よう座員を連れて飲み食いするときも景気よく出してました。 阪…
-
<4>岡八朗師匠に弟子入り 「絶対続けへん」と言われたけど…
――1974年、まず巨人がひと足先に吉本に入り、高校生だった阪神の卒業を待つことになった。 巨人 それで岡八朗師匠のとこに弟子入りすることになるんですが、これも本当にたまたまというか偶然で、実…
-
<3>海原千里・万里の出番の前に漫才とモノマネを
巨人 僕らにコンビを組んで漫才をやるきっかけをくれたのが「ヤングおー!おー!」の林誠一プロデューサーでした。さすがにすぐプロになる踏ん切りはつかなかったけど、それでもチョコチョコ番組に出してもらうよう…
-
<2>そこの背の高いのと低いの、なんでもいいからやってみい
巨人 僕も阪神君も、芸人になる前からやっぱり普通の子じゃなかった。小学校の頃から教室で友達や先生を笑かしたり、遠足や学芸会でも目立っていて、学生の頃にはそれぞれアマチュアながら結構な有名人になってまし…
-
<1>僕らもゲンダイさんも40周年!
巨人 これから僕らの40年間を振り返っていくわけやけど、40年も、過ぎてみたら早い。ようここまでこれたと思います。ただ、それも皆さんから「40年間、長かったですか、短かったですか」って聞かれるんで、ど…