五木寛之 流されゆく日々
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連載10372回 「オイハラ」とは何か? <1>
この冬は、ほとんど一枚の黒のタートルネックのセーターですごした。 上着は肘当てのついた茶系のブレザーである。外に出るときは、きまってそれ一着。 打ち合わせも、街へ買物にいくときも、テレビ出演…
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連載10371回 「マサカの時代」に思う <5>
(昨日のつづき) 昨夜は徹夜したものの、結局、最後の原稿ができずに朝を迎えた。今日は日経ホールで講演の予定があるので、しばし仮眠。 夕刊に目を通すと、マサカの事故の記事が目についた。日本人ノー…
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連載10370回 「マサカの時代」に思う <4>
(昨日のつづき) 午後3時に目覚めた。ゆうべ徹夜したので、まだ眠い。4時、KADOKAWAの菅原氏、蔵本氏と面談。戦後七十余年間の忘れられた名著のラインナップを検討する。出版界も大量生産大量消費だ…
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連載10369回 「マサカの時代」に思う <3>
(昨日のつづき) 私の生涯における最大のマサカは、言うまでもなく外地における敗戦体験だった。12歳のときである。 この話はいやになるほどしてきたので、ここでは書かない。ピョンヤンを脱出して、三…
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連載10368回 「マサカの時代」に思う <2>
(昨日のつづき) 毎日、えっ、と驚ろく日々の連続である。 もちろんマスコミの誇大報道もあるが、それにしても予想しなかった出来事の連発だ。 政治の世界は「一寸先は闇」と昔から言われてきた。そ…
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連載10367回 「マサカの時代」に思う <1>
東日本大震災から7年が過ぎた。いまなお7万3000人あまりの被災者が流浪している。 私は以前、デラシネという現象に関して、さまざまな外国の例を引くことが多かった。しかし、ふと足もとを見ると、デラ…
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連載10366回 情報格差ということ <5>
(昨日のつづき) 経済的格差もたしかに大問題である。しかし格差には、そのほかにもいろいろある。どんな立場の家に生まれたか。どのような両親にめぐまれたか。そして、どういった個人的資質をもって生ま…
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連載10365回 情報格差ということ <4>
(昨日のつづき) 飛行場から連日のように飛びたつ軍用機に不審を抱かなかったのは、当時の私たちの奴隷根性である。 情報というものの重要さを全く認識できていなかったのだ。情報は新聞とラジオ、そして…
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連載10364回 情報格差ということ <3>
(昨日のつづき) 下層インテリの典型であった私の父親が、現実に手に入れた情報はじつに貧弱なものだった。 貧弱というより、明かにフェイク・ニュースである。ナンセンスと言っていい。 当時、戦時…
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連載10363回 情報格差ということ <2>
(昨日のつづき) こういう事を書くと、すぐに陰謀論というレッテルをはられがちだ。 しかし歴史をふり返って見て、大きな事件の背後に、いわゆる陰謀がなかった例があるだろうか。 古代史の神話伝説…
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連載10362回 情報格差ということ <1>
<格差>が大きな問題として浮上して、さまざまに論議されている。 その主たる視点は、経済的格差だ。一部の超富裕層と多数の庶民大衆の間の格差は、天文学的な数字となってあらわれている。 民主主義の時…
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連載10361回 通俗の道も難きかな <5>
(昨日のつづき) 仏教には、原始仏教の流れをくむ上部座仏教と、のちに中国などで発展した大乗仏教の二つの世界がある。 上部座仏教のことを俗に小乗仏教などと言ったりするが、これは大乗仏教側からいう…
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連載10360回 通俗の道も難きかな <4>
(昨日のつづき) (承前)《そのためにエンターテインメントの要素であるカタルシスやメロドラマチックな構成、物語性やステロタイプの文体などを、目的としてではなく手段として採用することを試みた。 し…
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連載10359回 通俗の道も難きかな <3>
(昨日のつづき) 今回も私の最初の本、『さらばモスクワ愚連隊』のあとがきとして添えた文章の続きである。少し長いが辛棒して読んでいただきたい。 《(承前)私には蛇にとって、<足>の存在が全く無用の…
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連載10358回 通俗の道も難きかな <2>
(昨日のつづき) 私は通俗的な人間である。いや、通俗的であることを志向している半通俗的人間、といったほうがいいだろう。 本来的な通俗性は、一つの才能である。根っからの通俗人ということだ。教師と…
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連載10357回 通俗の道も難きかな <1>
インテリなら誰もが知っている或る高名な思想家が、どこかの講演の中で、 「私の本と五木寛之の本のどちらが売れるかといえば、圧倒的に五木のほうである。それはあちらが通俗的であるからだ」 というよう…
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連載<10356>'68年のデラシネたち <5>
(昨日のつづき) 私がデラシネについて書いたり、『デラシネの旗』などというドキュメント小説を発表したりした’60年代の終りは、ある意味で戦後という季節の終焉を予感した時代かもしれない。 当時は…
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連載10355回 '68年のデラシネたち <4>
(昨日のつづき) ’60年代の群像のなかで、ことに記憶に残っているのは、鈴木いづみである。 ある時、高田馬場の<大都会>という喫茶店で、秋山駿さんと一緒にいた。たしか<早稲田キャンパス>という…
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連載10353回 '68年のデラシネたち <2>
(昨日のつづき) 『沸騰時代の肖像』に集められたのは、次のような群像である。いずれも1960年代の映像だ。(五十音順) 麻丘めぐみ/浅川マキ/足立正生/阿部薫/安部公房/天地真理/荒木一郎/生島…
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連載10352回 '68年のデラシネたち <1>
写真家の石黒健治さんが、新しい写真集をだすという。1968年という時代を駆け抜けた群像の人物ドキュメントらしい。 石黒健治さんは広島を主題にした社会派の写真家としてデビューして以来、さまざまな分…