野球に食文化もちろん落語も
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<第13回>若手育てながら「負けられない」という気持ちも
米助は落語芸術協会の理事を務めている。副会長の小遊三や理事の春風亭昇太、桂竹丸らとともに協会を引っ張っていかねばならない立場にある。野球落語を作って演じていた自分の若手時代を思い起こすと、協会の若手…
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<第12回>番組が変わっても「隣の晩ごはん」は続いていく
その後「突撃!隣の晩ごはん」は、06年から09年3月まで日本テレビ系の報道番組「Newsリアルタイム」の中で、「突撃!リアル隣の晩ごはん」として6時台に月2回放送された。さらに09年4月から「おもい…
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<第11回> 隣の晩ご飯は空き巣か下着泥棒のような目つきで
「ルックルックこんにちは」の「突撃!隣の晩ごはん」は、1985年から2001年まで16年続いた。さらに翌年、同じ日本テレビ系のワイドショー「ザ!情報ツウ」に移り、「帰ってきた!突撃!隣の晩ごはん」とし…
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<第10回>「隣の晩ごはん」で顔と名前が一層売れてきた
1985年、日本テレビの朝のワイドショー「ルックルックこんにちは」から出演依頼があった。視聴者の家庭をアポなしで訪問し、夕飯の食卓をリポートする役どころだという。米助は二つ返事で引き受けた。 …
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<第9回>巨人をネタに野球落語、東京で受けても大阪では…
1981年、米助は真打ちに昇進した。鈴本演芸場での真打ち披露興行の初日、私は客席にいた。まず、祝いに贈られた後ろ幕に驚いた。巨人のチームカラー、エンジ色の幕に黒の大きなYGマークが入り、「読売巨人軍…
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<第8回>悩んでいた頃、電車で高校時代の教師とバッタリ
二つ目の米助は30歳になって悩んでいた。自分はどんな新作落語を演じればいいのかと。従来の新作派は大先輩の柳家金語楼が作ったネタや演芸作家に作ってもらった古典落語の焼き直しのようなネタを演じていた。米…
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<第7回>小遊三と「レッド・スネーク・カモン」のネタ披露
二つ目時代からの米助の遊び仲間は同じ落語芸術協会の三遊亭小遊三、三笑亭夢之助、柳亭小痴楽(後の痴楽)である。 世話焼きの小痴楽が代官山にアパートを借りて、そこを仲間のたまり場にした。落語協会…
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<第6回>談志の弟子を志望も「あいつは生意気だからダメ」
桂米助こと本名・小野五六が落語家を志したのは高校を卒業する1967年のこと。立川談志の著書「現代落語論」を読んで落語に魅せられた。団塊の世代の落語家はたいていこの本に感化されている。米助もそのひとり…
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<第5回>長嶋茂雄に「落語家みたいな名前ですね」と言われ…
米助の野球愛は少年時代に育まれた。千葉県市原市の生まれなので、当然のごとく千葉の英雄、長嶋茂雄の大ファンになった。引退した時は大泣きしたし、監督を辞任させられた時は怒りに震えた。いまだに長嶋派の人物…
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<第4回>大リーグファンになるきっかけはパンチョ伊東さん
米助のメジャーリーグファン歴は34年になる。1982年、当時パ・リーグの広報部長で大のメジャー通、伊東一雄さんと知り合ったのがきっかけだった。風貌が中南米っぽいことから「パンチョ」の愛称で親しまれた…
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<第3回>松井の試合を見た後、イチローに会ったら…
米助は毎年自費でアメリカへ赴き、イチローの試合を観戦している。マイアミ在住の日本人コーディネーターに通訳と案内を頼む費用も自腹なので大変だ。今年はマイアミからアリゾナへ呼び寄せ、次の目的地シアトルま…
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<第2回>月初めにイチローから近況報告のメールが届く
米助の野球界の人脈は実に広い。審判員にも知り合いが多く、イチローを紹介してくれたのは愛工大名電出身で、イチローの大先輩に当たる中村稔審判員だった。イチローは25歳年上の野球通の落語家と気が合い、食事…