キャンディーズの軌跡(前編) 活動わずか5年、伝説の解散コンサート、それぞれの道へ
昭和を代表する元祖アイドルグループといえばキャンディーズ。メンバーは伊藤蘭、藤村美樹、田中好子の3人。1973年にデビューし、78年に解散、その後は三者三様の人生へと場所を移した。彼女たちはどうやって絶頂へ駆けのぼったのか。
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そもそもキャンディーズの3人は、当時の芸能事務所最大手・渡辺プロダクションがつくったスクールメイツの数十人のメンバーだった。チアリーダーのようにミニスカート姿でポンポンを振りながらアイドル歌手のバックで踊る一員に過ぎなかった。転機は72年、3人が「歌謡グランドショー」(NHK)のマスコットガールに抜擢されたこと。「食べたいほどかわいい」のでキャンディーズと命名された。ラン、スー、ミキの愛称もこの時に決まった。しかし、デビューは未定のまま。
この3人がグループサウンズのボーカルだった音楽プロデューサーの松崎澄夫氏(その後芸能事務所AMUSE社長)の目に留まる。「僕に担当させてほしい」。松崎氏が手を挙げ、73年「あなたに夢中」でデビューが決まる。
スーちゃんがセンターを務め、ソロパートを担当したが、4枚目までは話題にならなかった。ところが、ランちゃんをセンターにした75年の「年下の男の子」がオリコンで初のベストテン入りし、一気にブレークする。最大の原動力はランちゃん人気だった。“お姉さん的な愛くるしさを感じる”という中高生の反応に着目して、「年下の男」をターゲットにした戦略が見事に当たったのだ。
♪あいつはあいつは可愛い 年下の男の子~と客席を指す振り付けに身を震わせた若者が多かった。続く翌76年の「春一番」は同3位。それ以降は出す曲、出す曲がヒットの連続だった。
しかし、彼女たちは歌だけで国民的アイドルになったわけではない。
■ドリフや伊東四朗を相手に笑いのセンスを磨く
忘れてはいけないのが3人のバラエティー能力の高さだ。当時40%台の視聴率を叩きだしていた「8時だョ!全員集合」(TBS系)のアシスタントとしてドリフとコントを共演し、笑いのセンスを磨いた。
「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」(テレビ朝日系)の「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」コントでは悪ガキに扮し、電線マンやしらけ鳥のギャグで人気の伊東四朗、小松政夫と互角にやり合った。落ちはミキ、スー、ランの順で、ランちゃんの「私、のー(どう)したらいいの!」は流行語にもなった。
伊東はのちに「彼女たちは自分で(踊るギャグの)振り付けを考えていた」と語った。男性アイドルでもコントでイジラれることがなかった時代に、アイドル3人はヅラや変装に文句を言わず積極的に挑戦して茶の間の話題をさらった。
76年にはピンク・レディーが「ペッパー警部」でデビュー。何かと比較されたが、当人たちはライバル視するより同じ時代の戦友という意識だったという。スーちゃんとケイは仲がよかったというし、ピンク・レディーは番組で共演した時はキャンディーズを立てていた。
社会現象と化したピンク・レディー旋風の真っただ中、77年夏、キャンディーズは突如、解散宣言する。日比谷野外音楽堂のコンサートのエンディング。3人が寄り添い号泣、「私たち、9月で解散します!」と訴えた。ランちゃんが泣きながら発した「普通の女の子に戻りたい」はアイドル史に残る名ゼリフである。
事前に事務所に了承を得ていない21、22歳のトップアイドルたちの独断による解散宣言はファンのみならず、日本列島に衝撃を与えた。翌日に緊急の記者会見。同日「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)の生放送でも“陳謝”を口にした。しかし、3人の意志は固く、事務所が説得しても解散は回避できず半年後の解散が決まった。
シングル「わな」ではランちゃんとスーちゃんの要望でミキちゃんが初めてソロパートをとり、ラストの「微笑がえし」では念願のオリコン1位を獲得。人気が下降してからの解散ではない証しとなった。
そして、翌78年4月4日、前人未到の後楽園球場での解散コンサートが行われた……。