テレビ界ハチャメチャ“偉人変人”伝
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氏家齊一郎の巻<後編>読売の渡辺に出演して欲しいと言っている
氏家さんは「人間の心をつかむ術」に長けていた。ある時SMAPと挨拶を交わした折、氏家さんの気さくな対応に感激した香取慎吾君が、後日、氏家さんに絵をプレゼントしたことがある。リトグラフのような30万円…
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氏家齊一郎の巻<前編>元日本テレビ社長でメディアの怪物
元・日本テレビ社長・会長であった故・氏家齊一郎さんについて「どんな方だったのか?」と聞かれることもあり、伝聞ではない「個人的な氏家さんに関する思い出」として紹介したい。制作現場にいた人間が雲の上の人…
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細野邦彦の巻<後編>笑いを取ろうとした泉ピン子をクビに
日本テレビでゲテモノ番組を量産した細野氏は、1969年、「コント55号の裏番組をぶっ飛ばせ!」を作る。ジャンケンに負けると芸能人が服を脱ぎ、それをオークションするという、映画にもラジオにも、類型も真…
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細野邦彦の巻<前編>ゲテモノテレビの開拓者の金言
今から60年ほど前に次々開局したテレビは映画の圧倒的な力を前に相当苦労したが、その後テレビは日本映画を駆逐し、巨大メディアとなった。テレビマンにも「開拓者・革命家」がいるが、残念なことに記録がない。…
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井原高忠の巻<後編>30年前にiPhone出現を予言していた
「24時間テレビ」を作り、ヒットメーカーの名をほしいままにしてきた「テレビの帝王」は惜しまれつつ51歳で日本テレビを離れ、ハワイに移住した。そして、日本テレビを辞めて2年後、井原さんを敬服する私の上司…
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井原高忠の巻<前編>24時間テレビを作った男の戦略と覚悟
井原高忠はその時、第一制作局長だった。1929年、三井財閥のオーナー一族に生まれた。学習院高校卒業後、慶応大学入学。ウエスタンバンドを結成。日本テレビ入社1期生。音楽番組・ファッション番組などを担当…
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ブラジルから来た男<後編>語った話が“丸パクリ番組”に
「世界まる見え」で紹介したブラジルの人気司会者で局の副社長リベラート氏を日本に招待し、部下の財津君の案内で新大久保に向かう。明治通り沿いにある店の前で降りる。「ブラジリアンパブ○○」とある。偵察で私と…
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スタッフの手をガムテでぐるぐる テリー伊藤の破天荒伝説
日本テレビ史における革命を起こした「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の総合演出テリー伊藤と初めて会ったのは1983年ごろ。まだ彼の才能が爆発する前だった。渋谷のスタジオに、米軍海軍将校の格好で現…
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「政治家100人クイズ」 優勝の土井たか子の人気が急上昇
入社後、プロデューサーAさんの班員になった。この人の企画は面白かったが無謀なものも多かった。「日本の政治家100人クイズ」という企画もその一つ。Aさんは「わかるか? この『政治家クイズ』の裏コンセプ…
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「問題ないアルヨ」 日本初の北朝鮮中央テレビ放映を敢行
新橋にあった中国の国営放送の中国中央電視台の日本支局長の張さんとは、じっこんの仲だった。なにせ当時、まだクオリティーの低かった中国の番組を買うテレビ局は日本では(世界でも)我々だけだったからである。…
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自転車を食う男の巻<後編>出演難航もまんまと来日させた
「世界一胃酸の強い男」と紹介されたあるカナダ人に梅沢プロデューサーは自転車を1台食わそうと考えた。ただし、細かい断片にして水で飲みこませる。 しかし、梅沢氏のこの画期的な企画に、スタジオ収録2…
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自転車を食う男の巻<前編>「面白いことだけを考えて」
1982年入社後、結局「公開・演芸」班に配属になった。今で言うお笑い・演芸・バラエティー・クイズなどを担当するセクションだ。チーフプロデューサーの萩原敏雄氏にご挨拶に行った。後に社長まで上り詰める萩…
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黒いカラスを捕まえて全身を白く塗ると群れに戻れるか?
あるクイズ番組でこんな体験をしたことがあった。日本初の「実験科学クイズ」と銘打ったその番組で、制作セクションとは別部署の真面目な人が出した企画だった。とはいえ、作るのは「科学」など全く理解していない…
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死亡保障は15億円 日本中が熱狂「オリバー君」来日顛末記
世界は時代を経るに従って緻密・厳密になり、妖しさや暗黒はなくなり、ほとんど可視化できるようになってきた。一方、路地の暗闇や入ってはいけない魔窟のような場所、オカルトや不可思議現象や心霊やUFOの話題…
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矢追純一氏は会社の経費を使い世界中で“怪しいネタ”探し
1982年、私が日本テレビに入社し制作局に配属が決まると各部門での研修が始まる。日テレ麹町6階の制作局に入った瞬間に驚いた。足元が紙くず・新聞紙だらけ、そこにいる人たちはゴミをゴミ箱に決して捨てない…
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秋元康の巻<後編>10カ月考えた企画に「やめた方がいい」
私が秋元康氏と再び会ったのは10年後の1995年である。それなりに番組を当てていた私は正月枠で前代未聞の制作費を使う「THE BET」というバラエティーを企画した。ある挑戦をして「できるか・できない…
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秋元康の巻<前編>完全なる“おたくファッション”で現れた
私が初めて秋元康さんと会ったのは1985年初夏のころであった。ゴールデンタイムのある番組が視聴率低迷のため終了し、次の番組が始まるまでツナギの30分×4本の「穴埋め番組」を制作した時だった。 …
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関口宏が語ったTVの使命 「番組は視聴率だけじゃない」
どんなものにでも栄枯盛衰があるように、関口宏さんの座長番組「知ってるつもり?!」も、私がチーフプロデューサーを拝命した1999年ごろから視聴率の低迷の兆しが表れていた。さまざまな強力企画、テコ入れ企…
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再現映像の元祖 「知ってるつもり?!」は関口宏が総監督
日曜夜9時。超アンタッチャブル番組、「巨泉のこんなモノいらない!?」の後、1989年に始まったのが、世界初の「ライフストーリー・人物伝」に関する知的エンターテインメント番組である関口宏さん司会の「知…
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スタッフが語る裏側 大橋巨泉の「こんなモノいらない!?」
「11PM」「巨泉・前武のゲバゲバ90分!」「クイズダービー」「世界まるごとHOWマッチ」で飛ぶ鳥を落とす勢いの大橋巨泉氏を初めて見たのは日本テレビ北本館のエレベーターホールであった。あれは確か198…