倉本聰 ドラマへの遺言
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「貯金がもう7万円しかありません」と言われた時には…
碓井 札幌に逃避行しても「勝海舟」を書き続けていた先生が、肺炎になって東京で入院してしまう。 倉本 結局NHKからは、病気降板という形で大河を降りたことにしましょうという話がありました。制作側と…
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「勝海舟」をやめる気はなくて札幌から台本を送ろうと…
碓井 大河ドラマ「勝海舟」(74年)で制作側と衝突。大変だったでしょうが、結果的には北海道に来るきっかけになりました。 倉本 あれがなかったらつまらない一生を過ごしたでしょうね。 碓井 違…
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面識ない松方弘樹に海舟役依頼 「やらせていただきます」
NHK大河ドラマ「勝海舟」(74年)の撮影開始から間もなく、病に倒れた渡哲也の代役としてひとりの俳優の名前が挙がった。 碓井 最終的に渡さんの後を託されたのは、映画「仁義なき戦い」(73年)で…
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この先生が一生懸命やってくださってるんだから断れねえぜ
NHK大河ドラマ「勝海舟」(74年)の勝小吉役を演じたのは、歌舞伎役者の二代目尾上松緑だった。 碓井 倉本先生が土下座までして出演交渉するほど、松緑さんには魅力があったんですね。 倉本 …
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松緑さんは意気に感じてくれる人 「土下座したら」の助言
NHK大河ドラマ「勝海舟」(74年)では、主演の渡哲也が病気のために降板するという緊急事態が発生した。この時、代役を務めたのは松方弘樹だが、そのキャスティングのために陰で奔走したのが倉本氏だった。 …
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「偉人の心理状況って想像ができないから嫌なんです」
NHK大河「勝海舟」(1974年)という自身初の大作に挑んだ倉本氏は、脚本を手がけるにあたって、以前から抱いていた苦手意識と対峙することになる。 碓井 もともと勝海舟という人物に関心や思い入れ…
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南田洋子さん司葉子さんは美人で神秘性とオーラがあった
脚本家としてメキメキと頭角を現してきた倉本氏が、NHK大河「勝海舟」(74年)の脚本に携わったのは39歳の時。のちに「意見の相違により途中降板」という前代未聞の事態になるなど思いもしなかった。 …
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笠智衆さんは「トシだから無理」と断わってきたんですが
信頼のおける北海道放送・守分寿男ディレクターとタッグを組んで制作した東芝日曜劇場「幻の町」(76年、TBS系)には、倉本氏が敬愛するベテラン俳優陣が出演していた。 碓井 「幻の町」は樺太からの…
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室田日出男とサブちゃんと桃井かおりは大真面目で…
碓井 70年代は「2丁目3番地」(71年、日本テレビ系)の後に、東芝日曜劇場(TBS系)が続きますよね。当時、あの枠では系列の地方局が制作した作品も流していました。倉本先生はすでにその頃、北海道放送(…
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人物像から創る 「何かにこだわる人間を書きたかった」
碓井 70年代前半は病気や死を巡る、やや重たいドラマが続きました。 倉本 ええ。もっと明るいものも出来ないと大人の脚本家になれないと思って書いたのが「前略おふくろ様」(75~77年、日本テレビ系…
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「僕はもう殺してあげた方がいいんじゃないかって」
「君は海を見たか」(70年、日本テレビ系)、「わが青春のとき」(同)、そして「赤ひげ」(72年、NHK)と70年代に入ると医療モノを複数手がけるようになった倉本氏。その理由は? 碓井 「わが青春…
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赤ひげ執筆時は母入院「かなり感情移入して書きました」
碓井 小林桂樹さんが主演した「赤ひげ」(72年、NHK)は時代劇でしたが、現在まで続く〈医師ドラマ〉や〈医療ドラマ〉のハシリといっていいかもしれません。 倉本 実は僕の爺さんは日本で初めての医学…
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あおい輝彦はセリフがうまく読めなくてその都度直した
NHKの時代劇ドラマは「文五捕物絵図」(1967年)に続いて「赤ひげ」(72年)の脚本も担当した倉本氏。松本清張から山本周五郎原作へとなったわけだが……。 碓井 「文五」は清張さんの原作がある…
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社会派NGだった当時のNHKでも時代劇はごまかして書けた
初期の倉本ドラマの代表作、1967年にNHKで放送された「文五捕物絵図」(松本清張原作、杉良太郎主演)は、ディレクターに和田勉、シンセサイザーアーティストの第一人者として知られる作曲家の冨田勲が音楽…
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岡田茂さんの前で「信濃忍法筒涸らし」とか言うわけです
ニッポン放送を退社したのち、日本テレビ系ドラマ「現代っ子」(1963年)が話題を呼び、「日活」と契約した倉本氏だったが……。 碓井 日活と契約していた当時、映画やドラマなど他社の仕事もしていい…
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本当のカップル 寺山修司&九条映子を“即興恋人”で起用
碓井 先生はニッポン放送のディレクターでしたから、構成作家としての寺山修司さんと仕事をした経験をお持ちです。上がってきた原稿ってどんな感じだったんですか。 倉本 ほとんど書かないですよ、あいつ。…
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「ニッポン放送を辞めます」 でも誰も止めてくれなかった
ニッポン放送入社から4年後の1963年(昭和38年)に退社するまで、倉本氏は寝る間もないほど多忙な生活を送っていた。 碓井 東京オリンピックの前年、会社員を辞めて、いわゆる筆一本の人間になりま…
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現場は100人…意思統一を図るため「採録シナリオ」を採用
碓井 1959年春にニッポン放送へ就職してまもなく、先生は「採録シナリオ」という映画から書き起こしたものでシナリオ修業をしたとおっしゃっていました。 倉本 ぺらぺらな雑誌でしたけど、「タイアップ…
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家庭教師先の親父が「鹿内信隆の女関係を探れ」と…
母親の意向に沿って3度目の正直で東大に合格するも、入学後は芝居と戯曲に没頭する日々。授業はほとんど受けていなかった倉本氏の就職活動はこれまた人並み外れていた。 碓井 倉本先生は昭和34(195…
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フランキー堺や小沢昭一に対抗するわけではないけれど…
碓井 大学進学率なんてまだまだ低くて、大学生そのものが何人にひとりだった時代に、倉本先生は東大生。今どきの大衆化された東大とはかなり違うんですよってことも、ここで言っとかないといけない(笑い)。 …