月満つる
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(21)風に春の訪れを知らせる香り
お千代の件では、まだうまく飲み込めぬこともある。だがあの子にとって、源斎は恩人なのだろう。 「そんなのは、女の勝手だわ」 「ああ、そうだろうな。でも俺はもともと女たちを救いたくて、中條流…
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(20)母子ともに壮健がなによりだ
一睡もしていない目に、朝の陽射しが鋭く刺さる。 濡れた砂でも詰められたのかと疑うくらいに、体が重い。それなのに気が高ぶっていて、ちっとも寝つけそうにない。 夜が明けてから帰宅してみる…
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(19)あとは源斎に任せるということか
産婦の呻きに呼応するように、行灯の火が揺れる。幾度目かの陣痛に苦しみ、お紋が積み上げた布団に預けていた背を反らす。 産門の具合を見ていたお利久が、「よし!」と叫んだ。 「もう充分だ、い…
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(18)赤ん坊、駄目だったの?
聖天町の、お紋。お利久の灸をもってしても、逆子が直らなかった妊婦である。 そういえばもう、産み月だ。まさかと思い、美登里は寝間着のまま、裸足で地面を踏んでいた。 「源ちゃん!」 …
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(17)いつの間にか手には皸が
(五) 伸びきった饂飩のような、張り合いのない日々が過ぎてゆく。 今戸の家に戻った美登里は、ただ漫然と家事をやり、飯を食べ、眠った。父はいつもと変わらず日の出と共に絵馬を描き、日が沈む…
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(16)水にされるなんてあんまりだ
地の底を這うようだった、お千代の慟哭が収まってゆく。 そのときを待ってお利久が尋ねた。 「よござんすね?」 お千代の母が、どす黒い顔で頷く。お利久はこちらを見遣りもせず、美登里…
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(15)薄く開いた眼で虚空を眺める
「堕胎は危険だって、美登里さんが──」 ややあって、母親が虚ろに呟いた。 お利久がこちらを見返り、眼差しを強くする。美登里とそっくりな、小さな目だ。それでも鋭く、突き刺さってくる。 …
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(14)四十路の女が眉を生やす異様
「どうも、利久です。ご機嫌伺いに参りましたよ」 ほとほとと、お利久が腰高障子を叩く。色の変わった障子紙には、『つくろひもの』と墨書されていた。 すなわち繕い物。お千代の母の、仕事である…
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(13)子は七つまでは神のうち
師走の町は慌ただしい。特に今日は浅草寺に歳の市が立ち、浅草界隈は人でごった返している。 人込みを避けて裏道を通っても、正月の注連飾りや破魔弓を持った人とすれ違う。五つ六つの女の子が、買っても…
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(12)逆子で生まれる、と頭を下げる
(四) 師走も半ばとなっても、聖天町に住むお紋の子は、いっこうに子返りしなかった。 諦めずに毎日通い、灸を据えてきたが、この先はもう気休めにもならない。理不尽な現実と、向き合わねばなら…
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(11)母親の目が驚愕に見開く
「まずは、きちんと調べてみましょう。よろしいですか?」 身籠ってから二、三か月のうちは、子壺の形が左右不同となる。どちらかが必ず膨張しており、そこに子の種が根づいたと思われる。 産門の…
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(10)女の体は血も流せば子も宿す
「どうぞ、お上がりください」 戸口でできるような話ではなかった。美登里は母娘を、中へと誘う。魂が抜けたような、娘の様子も気がかりだった。 火鉢に鉄瓶をかけ、三人分の番茶を淹れる。娘は茶…
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(9)戸の先に母娘らしい二人連れ
(三) 十一月に入ったとたん、冷え込みが急に厳しくなった。 井戸の水も、骨にまで染みてくるようだ。美登里はじんじんと疼く手に、はぁっと息を吐きかける。 昨夜もまた、夜通しのお産…
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(8)源太郎は家業を継いで中條医に
大昔の話を持ち出され、口の中に苦い味が広がった。美登里は思わず、むきになって言い返す。 「知らない。覚えてないね」 「悲しいなぁ。『大きくなったら源ちゃんのお嫁さんになる!』って言ってた…
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(7)人目を忍んで子を堕しに
美登里の存在など忘れたかのように絵筆を動かしだした父を置いて、家の裏側へと回る。いつから干しっぱなしになっているのか、褌と色の褪めた木綿の着物が、物干し竿にはためいている。 昨夜は小雨が降っ…
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(6)年々注文が増える父の絵馬
「ああ、これは驚いた。どうしたんだい?」 日の高いうちから訪ねても、居職の父は家にいた。 三畳と四畳半に分かれた部屋の、手前の三畳間を仕事場にしている。 父は、絵馬師だ。十月も…
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(5)逆子を治すツボに艾を
お鶴の元を辞してからも何軒か、妊婦や産婦の様子を見て回る。 特に気にかけて頻々と通っているのは、聖天町の裏店に住むお紋の家だ。こちらは妊娠八か月。腹がぐんぐん前に突き出して、胸乳もずいぶん張…
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(4)じわじわと胸に喜びが湧く
(二) 盥に汲んだ水の冷たさに、眠気がつかの間はじけ飛ぶ。 瞼が半ば下りかけていたが、美登里は「ヒッ!」と息を呑んで目を開けた。 慌ただしい夜だった。お蔓の後産も無事に済ませ、…
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(3)産門から早くも赤子の頭が
与平が住む元鳥越町の裏店は、夜のしじまもどこへやら、人が入り乱れて大騒ぎになっていた。 長屋のおかみさんたちが大慌てで湯を沸かし、布を抱えて走り回る。ただならぬ様子に怯えた子が泣き叫び、男た…
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(2)腕のいい産婆は声がいい
お利久の予言どおり、お鶴のお産は長引きそうだ。 夜八つを過ぎてもまだ、子壺の口は思うように開かない。間をあけて襲う痛みも、次第に弱まってきているようだ。 やはり子が、下りてこない。お…