昭和スター千一夜物語
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石原裕次郎(6)肉声スクープ求めあの手この手「ワイドショーの戦いは生き馬の目を抜くようだね」
1981年6月21日の朝、信濃町の慶応病院前は報道陣約200人で埋まった。本館屋上からパジャマ姿の裕次郎さんとまき子夫人、渡哲也さんが現れると(写真)、テレビ局のニュースヘリが爆音を上げて頭上に接近…
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石原裕次郎(5)“慶応病院屋上”スクープ撮はフライング…石原プロには伝えていなかった
♪母は来ました……。慶応病院の裕次郎さんの病室窓から撮影した写真には私がコマサ(小林正彦専務)に託した「岸壁の母」の歌詞をあおむけに見ながら裕次郎さんが歌っている姿が映っていた。窓を10センチ開けて…
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石原裕次郎(4)6時間半の大手術から生還 全員で「裕次郎万歳!」を三唱して祝杯を挙げた
「石原裕次郎が危ない!」 スポニチの編集部は騒然となった。裕次郎さんは救急車で信濃町の慶応病院に運ばれ、5月7日に解離性大動脈瘤の大手術が行われた。生還率3%という危篤状態であった。文化部は全…
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石原裕次郎(3)「幸運のあとに必ず不運が…」石原プロの番頭コマサの憂慮が現実に…
胸部疾患でほぼ1年を棒に振った裕次郎さんは翌年の1972年6月公開の「影狩り」でカムバックした。さいとう・たかをの劇画を映画化、むろん石原プロの製作である。28歳で芸能記者になった私はラジオ・テレビ…
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石原裕次郎(2)大手映画会社の“独立プロ潰し”で破産危機…「テレビを軸に会社を立て直すよ」
テレビドラマの台頭で映画産業の斜陽がはじまると、裕次郎さんは1963年1月に独立プロ「石原プロモーション」を港区虎ノ門に設立(73年に調布市に移転)。日活映画から番頭のコマサ(小林正彦専務)ら親衛隊…
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石原裕次郎(1)映画「狂った果実」秘話…悪筆の兄・慎太郎の台本を徹夜で代筆してやっと完成
昭和のスターたちは豪快で華麗で、ハチャメチャだった。学歴なんかなくても向上心、努力、知恵の3つがあれば総理大臣にだってなれた昭和。私は長嶋茂雄さん(読売ジャイアンツ終身名誉監督)を車に乗せてハイライ…