昭和スター千一夜物語
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勝新太郎(1)「よし、オレも日本に帰ったら映画スターになってやろう」
勝新太郎さん(享年65)が俳優を目指すきっかけとなったのはハリウッド映画「エデンの東」(公開1955年)に出演中だったジェームス・ディーンとの出会いで、勝さんは「あれは強烈な印象だった」と述懐してい…
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園まり(5)40年ぶりの復活コンサートで「3人娘」はやっとひとつになれた
「3人娘」の伊東ゆかりから「また、一緒にやろう」というファクスを何度も送られてきたが、園まりさんは「ポップスは苦手なの」と言って断ってきた。ところが2003年12月、テレビ東京「年忘れにっぽんの歌」か…
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園まり(4)42歳で渡辺プロを退社しフリーに…芸能界から一時退いていた背景
園まりさんがソロ歌手として臨んだ「何も云わないで」はヒット。続く「逢いたくて逢いたくて」のレコードはさらに売れたが、本人は「どれも好きな歌ではなかった」のである。しかし皮肉なことに“囁く歌手”の人気…
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園まり(3)“園まり節”はポリドール松村慶子ディレクターの巧みな指導で完成した
ミニスカから和装にヘンシンして日劇の「ウエスタンカーニバル」で「何も云わないで」を歌った園まりさんは青ざめた。会場から「まり、ひっこめ!」「帰れ! 帰れ!」と痛烈なヤジが炸裂、テープの芯が飛んできた…
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園まり(2)中尾ミエ、伊東ゆかりと「スパーク3人娘」結成も…「実は私は穴埋めでした」
園まりさんは16歳の時、NET(現テレビ朝日)の歌手の登竜門番組「あなたをスターに」(1960年10月)に出場して優勝、父親の勧めで61年に渡辺プロダクションに入社。翌62年5月に「鍛冶屋のルンバ」…
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園まり(1)「すみません、地震は大嫌いなんです。揺れると体が硬直して動けなくなるのです」
甘く囁くような歌唱で男性のハートをくすぐった園まりさんが7月26日に急性心不全で亡くなった。80歳。「何も云わないで」や「逢いたくて逢いたくて」の大ヒットで知られるまりさんは、中尾ミエ(78)と伊東…
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吉永小百合(11)「自然に映画とともに年を重ねるだけ。私の子どもは映画たちです」
吉永小百合はデビューした10代からいきなりアイドルとして輝き、映画「青春の門」(1975年)で清純派脱皮、結婚4年後にはTBSの「海は甦える」(77年)で茶の間も席巻、映画「動乱」(80年)では高倉…
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吉永小百合(10)「15歳年上のバツイチと、よく一緒になりましたね」
夜汽車の「特急とき」は東三条→上野。すいたグリーン車の真ん中で近藤久也プロデューサーは静かだった。小百合と私に付き合って駅前で飲んだ日本酒が効いて、爆睡状態である。窓際で向かい合って座った2人の会話…
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吉永小百合(8)上野行きの夜汽車で大好きな女優と向かい合う…黄金の時間だった。
役場の人たちに見送られて吉永小百合、「海は甦える」の近藤久也プロデューサー、私の3人はタクシーで信越本線の東三条駅前まで戻った。梅雨はいっそう激しくなり、びしょ濡れの3人の衣服は、手で絞れるくらい雨…
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吉永小百合(8)「人気女優と二枚目テレビマン2人だけの旅行は危険。2人のクッションに記者を?」
吉永小百合はTBSテレビの3時間ドラマ「海は甦える」の収録に入る前にヒロインの故郷を訪ね、役作りに備えることになった。1977年6月、マネジャーの島田智子さんが「あす、新潟まで同行取材してください」…
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吉永小百合(7)「女優は与えられたお芝居の役になり切り、演じるだけ」
吉永小百合は1973年秋、15歳年上のフジテレビのディレクター、岡田太郎氏と、ひっそり結婚した。「晴れて」といいたいが、そうではなかった。娘の結婚に大反対だった両親とは大げんかの末、小百合は「吉永家…
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吉永小百合(6)「デスク、大変です。吉永小百合と岡田太郎ディレクターが結婚します」
「吉永小百合と岡田太郎氏結婚」は電撃的だった。岡田氏は現役のフジテレビの社員ディレクターだから、小百合との結婚情報はフジサンケイグループに漏れても不思議はない。最初に特ダネを入手したのは系列のサンケイ…
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吉永小百合(5)両親の反対で渡哲也と破局。小百合は失語症に…
吉永小百合と浜田光夫のコンビでヒットした映画「愛と死をみつめて」の第2弾として1966年に「愛と死の記録」が用意された。ところが浜田が目を負傷したため、急きょ、渡哲也が代役に選ばれた。小百合には10…
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吉永小百合(4)多忙で激しい青春を送りながら、恋に目覚め、恋に落ちる、普通の女性でもあった。
吉永小百合は1967年に「吉永事務所」を設立して独立。2年後の69年に早大を次席で卒業し、日活とは「年間2本の作品に出演することを条件に、了解を得れば他社の作品に出演でき、自主製作映画もできる」とい…
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吉永小百合(3)タモリは「吉永の食べ残しを食べようか迷ったが思いとどまった」
吉永小百合は、楚々とした「お嬢さま」のイメージだが、小学校のころは「お米を買う余裕もない時期もあった」ほど貧しい暮らしを体験している。父親の吉永芳之は東大法学部卒後、外務省を経て事業を興すが失敗。借…
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吉永小百合(2)スターに悲劇が加わると、さらに人気は上昇するのが芸能界である
「文武両道」吉永小百合は芸事に秀でていて、聡明な女優である。そんなスターに悲劇が加わると、さらに人気は上昇するのが芸能界である。1962年の「キューポラのある街」で弾みがつき、続く主演作「赤い蕾と白い…
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吉永小百合(1)私が“隠れサユリスト”になった瞬間
団塊~70歳代の人で吉永小百合(79)の熱烈ファンを「サユリスト」と呼ぶ。今も美しく、今年は女優デビュー65周年を記念して「吉永小百合青春時代写真集」を発表。サユリストは小百合の可憐、熟成、壮年のス…
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ちあきなおみ(6)一瞬、驚いたように立ち止まったが、無言で歩き去った。
ちあきなおみ・郷鍈治夫妻は麻布で喫茶店を経営。そこは、2人の音楽仲間、俳優友達が集まる“憩い”の場所だった。カウンターに入り、コーヒーをひいたり料理を作ることもあり、彼女がもっとも「普通の主婦」を過…
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ちあきなおみ(5)義兄の宍戸錠さんは「ちあきにかなう歌手はいない」とベタ褒めだった
ちあきなおみさんはポップス系の歌が多かったが、「船村徹演歌なら挑戦してみたい」と、1975年7月に「さだめ川」(詞・石本美由紀)を出し、76年10月には「酒場川」とB面「矢切の渡し」を発表、船村・石…
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ちあきなおみ(4)大麻で逮捕されたポール・マッカートニーが移送された先は…
「喝采」旋風の翌1973年のはじめ、再び内幸町のNHKの楽屋で会った。ちょうど「喝采」の次の企画に入っていたころで、人生最大の多忙な年末を乗り切って、一段落していた。公私が重なったといわれた悲恋曲「喝…