昭和スター千一夜物語
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勝新太郎(7)「ビデオカメラは降ろすための格好の理由だったわけ。アイツは肝っ玉が小さすぎる」
勝新太郎さんが黒沢映画「影武者」を降ろされた理由は、勝さんが「リハーサル室に演技テスト用のビデオカメラを持ち込んだ」ことになっているが「実はもっと前から黒沢はオレを嫌っていた」と明かしている。 …
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勝新太郎(6)世紀の「降板劇」模様を勝さんのワゴン車で直に詳しく聞いた。
「アイツの逃げ足の速いことったらなかった」 勝新太郎さんが“アイツ”と呼び捨てにした相手は世界の黒沢こと、黒沢明監督である。勝さんは黒沢監督が「デルス・ウザーラ」(1975年)以来、5年ぶりに…
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勝新太郎(5)4本のブランデーを飲み切ったところで「さあ、何でも質問しろよ」と…
勝新太郎さんの取材はいつも刺激的でユーモアに富んでいる。勝さんの番記者だった先輩は「とことん付き合わないと、勝新太郎に好いてもらえない」と映画全盛時代の勝さんを回顧。京都太秦での撮影が終わるや、勝さ…
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勝新太郎(4)「おっ、中野かい、オレと将棋をして、もし勝ったら話そう」
勝新太郎さんはギャンブル好きで大の負けず嫌い。勝さんの車に便乗すると「丸裸にされる」とぼやいていたのは1975年のフジテレビ「痛快! 河内山宗俊」で勝さんと共演したヒデとロザンナの出門英さん(90年…
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勝新太郎(3)「玉緒との離婚を発表するからすぐ家に来てくれ」
勝新太郎さんは最盛期に入っていた。「座頭市」「兵隊やくざ」「悪名」と人気シリーズを確保。1967年には勝プロダクションを設立、勝さんの高額ギャラに加えて製作費も入ってきた。ところが中村玉緒と結婚して…
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勝新太郎(2)「おい、脇ちゃん、寒くてかなわねぇ、俺と相撲をとろう」
やんちゃ坊主、破天荒、豪放磊落……。名優だった勝新太郎さんの代表作「座頭市」(1974年)がテレビに登場して半世紀がたった。ロケ現場で記者と相撲をとる勝さん、ふんどし一枚で離婚会見する勝さん、アヘン…
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勝新太郎(1)「よし、オレも日本に帰ったら映画スターになってやろう」
勝新太郎さん(享年65)が俳優を目指すきっかけとなったのはハリウッド映画「エデンの東」(公開1955年)に出演中だったジェームス・ディーンとの出会いで、勝さんは「あれは強烈な印象だった」と述懐してい…
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園まり(5)40年ぶりの復活コンサートで「3人娘」はやっとひとつになれた
「3人娘」の伊東ゆかりから「また、一緒にやろう」というファクスを何度も送られてきたが、園まりさんは「ポップスは苦手なの」と言って断ってきた。ところが2003年12月、テレビ東京「年忘れにっぽんの歌」か…
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園まり(4)42歳で渡辺プロを退社しフリーに…芸能界から一時退いていた背景
園まりさんがソロ歌手として臨んだ「何も云わないで」はヒット。続く「逢いたくて逢いたくて」のレコードはさらに売れたが、本人は「どれも好きな歌ではなかった」のである。しかし皮肉なことに“囁く歌手”の人気…
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園まり(3)“園まり節”はポリドール松村慶子ディレクターの巧みな指導で完成した
ミニスカから和装にヘンシンして日劇の「ウエスタンカーニバル」で「何も云わないで」を歌った園まりさんは青ざめた。会場から「まり、ひっこめ!」「帰れ! 帰れ!」と痛烈なヤジが炸裂、テープの芯が飛んできた…
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園まり(2)中尾ミエ、伊東ゆかりと「スパーク3人娘」結成も…「実は私は穴埋めでした」
園まりさんは16歳の時、NET(現テレビ朝日)の歌手の登竜門番組「あなたをスターに」(1960年10月)に出場して優勝、父親の勧めで61年に渡辺プロダクションに入社。翌62年5月に「鍛冶屋のルンバ」…
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園まり(1)「すみません、地震は大嫌いなんです。揺れると体が硬直して動けなくなるのです」
甘く囁くような歌唱で男性のハートをくすぐった園まりさんが7月26日に急性心不全で亡くなった。80歳。「何も云わないで」や「逢いたくて逢いたくて」の大ヒットで知られるまりさんは、中尾ミエ(78)と伊東…
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吉永小百合(11)「自然に映画とともに年を重ねるだけ。私の子どもは映画たちです」
吉永小百合はデビューした10代からいきなりアイドルとして輝き、映画「青春の門」(1975年)で清純派脱皮、結婚4年後にはTBSの「海は甦える」(77年)で茶の間も席巻、映画「動乱」(80年)では高倉…
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吉永小百合(10)「15歳年上のバツイチと、よく一緒になりましたね」
夜汽車の「特急とき」は東三条→上野。すいたグリーン車の真ん中で近藤久也プロデューサーは静かだった。小百合と私に付き合って駅前で飲んだ日本酒が効いて、爆睡状態である。窓際で向かい合って座った2人の会話…
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吉永小百合(8)上野行きの夜汽車で大好きな女優と向かい合う…黄金の時間だった。
役場の人たちに見送られて吉永小百合、「海は甦える」の近藤久也プロデューサー、私の3人はタクシーで信越本線の東三条駅前まで戻った。梅雨はいっそう激しくなり、びしょ濡れの3人の衣服は、手で絞れるくらい雨…
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吉永小百合(8)「人気女優と二枚目テレビマン2人だけの旅行は危険。2人のクッションに記者を?」
吉永小百合はTBSテレビの3時間ドラマ「海は甦える」の収録に入る前にヒロインの故郷を訪ね、役作りに備えることになった。1977年6月、マネジャーの島田智子さんが「あす、新潟まで同行取材してください」…
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吉永小百合(7)「女優は与えられたお芝居の役になり切り、演じるだけ」
吉永小百合は1973年秋、15歳年上のフジテレビのディレクター、岡田太郎氏と、ひっそり結婚した。「晴れて」といいたいが、そうではなかった。娘の結婚に大反対だった両親とは大げんかの末、小百合は「吉永家…
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吉永小百合(6)「デスク、大変です。吉永小百合と岡田太郎ディレクターが結婚します」
「吉永小百合と岡田太郎氏結婚」は電撃的だった。岡田氏は現役のフジテレビの社員ディレクターだから、小百合との結婚情報はフジサンケイグループに漏れても不思議はない。最初に特ダネを入手したのは系列のサンケイ…
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吉永小百合(5)両親の反対で渡哲也と破局。小百合は失語症に…
吉永小百合と浜田光夫のコンビでヒットした映画「愛と死をみつめて」の第2弾として1966年に「愛と死の記録」が用意された。ところが浜田が目を負傷したため、急きょ、渡哲也が代役に選ばれた。小百合には10…
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吉永小百合(4)多忙で激しい青春を送りながら、恋に目覚め、恋に落ちる、普通の女性でもあった。
吉永小百合は1967年に「吉永事務所」を設立して独立。2年後の69年に早大を次席で卒業し、日活とは「年間2本の作品に出演することを条件に、了解を得れば他社の作品に出演でき、自主製作映画もできる」とい…