五木寛之 流されゆく日々
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連載11541回 ある未亡人の妄想 <3>
(昨日のつづき) ものがなくなった、盗まれた、と言いだすのは、認知症の一つの徴候とされるのは周知のとおりだ。<もの盗られ妄想>などともいうらしい。 私がこのところ繰り返し読み返している一冊の本…
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連載11540回 ある未亡人の妄想 <2>
(昨日のつづき) その未亡人は若い頃から気品のある美しさと、気さくなお人柄で評判のご婦人だった。外国の大学を出ていらして、近年まで短歌の結社でも活躍されていたという。 それだけに夫君の逝去後、…
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連載11539回 ある未亡人の妄想 <1>
ある個性的な作家がいらした。いらしたというのは、すでに故人となられたかただからだ。 私はそのかたの文体が好きで、何度かまねを試みたが、うまくいかなかった。やさしい書き方だが、その背後に無限といっ…
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連載11538回 これまでと違う新年 <7>
(昨日のつづき) マイク・モラスキーさんの『呑めば、都』(ちくま文庫)は、いまから10年ほど前に出版された本である。 一読、なぜかひどく懐しい気がしたのは、居酒屋という舞台のせいではない。私は…
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連載11537回 これまでと違う新年 <6>
(昨日のつづき) マイク・モラスキーさんと対談の冒頭、 「これを五木さん宛に託されてきました」 と、モラスキーさんから手渡された印刷物の束があった。 「先日、盛岡にいってきました。その折り…
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連載11536回 これまでと違う新年 <5>
(昨日のつづき) 毎年、正月の松の内は、なすこともなく部屋にこもって、本を読んで過ごす。 きょうは今年の仕事始めで、マイク・モラスキーさんと対談をした。物書きと対談をするときには、事前にその人…
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連載11535回 これまでと違う新年 <4>
(前回のつづき) 戦後七十余年、敗戦と戦後の記憶を体に刻みこんで保持している人々の数は、いまや少なくなった。 そしていま語られる記録としての戦後は、すでに脱色された資料となり果てている。 …
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連載11534回 これまでと違う新年 <3>
(昨日のつづき) 私は日本の敗戦を北朝鮮の平壌でむかえた。そして引揚げまでのタイムラグがあるために、日本本土における占領直後(米軍による)の実態と空気を知らない。帰国後も九州の山村に住んだので、米…
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連載11533回 これまでと違う新年 <2>
(昨日のつづき) <これまでと違う新年>というのは、これといって理論的な裏づけのある発言ではない。 私はもともと勉強が嫌いで、文章にするのはすべて90年の生活体験からきた感想である。 第2次…
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連載11532回 これまでと違う新年 <1>
正月なので『養生論』をひと休みして年頭の所感を。 コロナ禍の襲来とともに、夜型人間から昼型人間に激変して数年がたつ。 たぶん一時的な変異だろうとタカをくくっていたのだが、そうではなかった。い…
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連載11531回 私の体験的養生論 <8>
(昨日のつづき) 今年も大過なく一年が過ぎようとしている。<大過>というのは、大きな過失、思いがけない失敗のことなどをいうのだろう。 仕事のことに関しては、<小過>はいくつかあった。この連載も…
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連載11530回 私の体験的養生論 <7>
(昨日のつづき) 最近、<サスティナブルな>などという言葉をよく目にすることがある。簡単にいうと<持続可能な>という意味らしい。 少くとも<持続>ということが問題にされるようになったことは、悪…
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連載11529回 私の体験的養生論 <6>
(前回のつづき) 何度も言うようだが、養生とか健康法は一律ではない。 人間が一人一人ちがうように、その人の体質、気質に適した養生法というものがある。いや、それしかないと言ってもいい。 Aの…
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連載11528回 私の体験的養生論 <5>
(昨日のつづき) 私はふだんあまり酒をのまない。あまりというのは、ほとんどという意味である。 私が新人の頃は、酒をのまない奴は作家じゃない、みたいな風潮がまだ残っていた。<文壇酒徒番付>などと…
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連載11527回 私の体験的養生論 <4>
(昨日のつづき) 健康と長生きとはちがう。 しょっちゅう体調を崩しながら長命の人もいる。頑健な肉体をもちながら短命な人もいる。 たとえどんなに貧弱な体でも、私は長く生きるほうがいい。 …
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連載11526回 私の体験的養生論 <3>
(昨日のつづき) 裸になって全身を鏡に写してみることがある。風呂に入る前と後と、ごく自然にそうするのが習慣になっているのだ。 何十年もそんな事をくり返していると、自分の体の現状がいやでも確認で…
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連載11525回 私の体験的養生論 <2>
(昨日のつづき) 今にして思えば、私はずいぶん変な子供だった。 まだ小学校にも上らない頃、大人に年をきかれると、 「満5歳です」 と、偉そうに答えていた。当時は<数え歳>といって、生れた…
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連載11524回 私の体験的養生論 <1>
恥ずかしながら今年の秋、90歳になった。<恥ずかしながら>というのは、格好つけでも謙遜でもない。正直なところ雑駁な人生だったと率直に思う。古い言葉ではそういうことを「馬齢を重ねる」などと言った。馬に…
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連載11523回 法螺を吹くということ <5>
(昨日のつづき) 近頃、大きな法螺を吹く人間がめずらしくなった。なるほど、と納得させられる論を展開する才人は少くない。華麗な論理を展開してみせる識者もいる。 しかし、それがホラと知りつつも、思…
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連載11522回 法螺を吹くということ <4>
(昨日のつづき) ふり返ってみれば、作家生活60年あまりの年月のなかで、私もずいぶん法螺を吹いてきた。 思い返せば、顔が赤くなるようなこともあったし、ふり返ることさえ恥ずかしい仕事もある。 …