3万試合裁いた男が語る「リングの真実」
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<15>「なんだ、この採点は!」 ジム会長から蹴飛ばされた
これまで約3万試合、世界戦は107試合を裁いたが、私の審判員人生は必ずしも順風満帆ではなかった。それこそ若い時などは、何度ジムの会長に罵声を浴びせられたか。 「なんだ、この採点は! ちゃんと試…
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<14>日本人にアウエーの洗礼 アジアで酷暑極寒を経験
日本のボクサーが、タイで行われたタイトルマッチで勝ったケースは非常に少ない。私もそれこそ、元WBCフライ級王者の勇利アルバチャコフくらいしか思い出せない。 これは日本のみならず、韓国人ボクサ…
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<13>抱きついた女性プロモーターが「勝たせて」と囁いた
この連載でも何度か書いたが、審判員は中立公正をもって、試合を裁かなくてはいけない。しかし、そうではない審判も中にはいる。 多くの国ではプロモーターが審判団を接待するのが常識となっている。試合…
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<12>江戸川河川敷の青空リング 土砂降りの中で試合裁いた
ボクシングの試合会場は世界各地でさまざまだ。 日本では後楽園ホールがボクシングの聖地とされている。東京ドームでも2回だけ、試合が行われたことがある。 いずれも、メーンイベンターを務め…
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<11>パッキャオの故郷ミンダナオ島では警官がライフル武装
海外の試合で最も怖いことは何か。それは治安の悪さだ。 米国や欧州はまだしも、東南アジアとなると肝を冷やしたことが何度もあったものだ。 最も恐ろしかったのが、97年に訪れたフィリピンの…
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<10>M・アリの試合裁いた日本人審判は全てが型破りだった
すでに亡くなられたが、私同様、プロボクサーから転身した羽後武夫さんという審判員がいた。日本ウエルター級王者に輝いたこともあり、引退後は審判員の道を選んだ。 この羽後さんは日本で唯一、世界ヘビ…
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<9>東南アジア「黄金の三角地帯」で貴重なレフェリー体験
東南アジアに「黄金の三角地帯」という地域がある。メコン川の流域で、タイ、ラオス、ミャンマーの3国の国境が交わる山岳地帯。私は94年、WBA世界バンタム級タイトルマッチのレフェリーとして、ここを訪れた…
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<8>国賓並みの待遇だった1976年のインドネシア訪問
海外遠征の経験も多かった私だが、一度だけ、どんな有名人にも劣らない歓待を受けたことがある。 76年4月、私は東洋太平洋タイトルマッチのレフェリーとして、インドネシアを訪れた。私にとって、2度…
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<7>大混乱に陥った飯田覚士vs.井岡弘樹の世界タイトル戦
ボクシングで揉め事が起きやすいのが、試合前日のルール会議だ。 通常のルールとは別に、両選手と所属するジムの会長などが出席。審判員は双方の意見を聞いた上で、その試合のみ適用されるルールを決める…
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<第6回>遅咲きの輪島功一が持っていた「2つの武器」
「ええっ、25歳? 随分年寄りが出てきたなあ」 1968(昭和43)年に輪島功一が25歳でデビューした時、私は耳を疑った。近年は30歳を過ぎた世界王者も珍しくないとはいえ、昔のボクサーで25歳…
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<5>ボクサー時代に対戦 ファイティング原田との因縁
我々審判は中立が絶対条件。いつ、いかなる時も公平にジャッジを下さなければいけない。しかし、私が唯一、リング上で「頑張れよ」と声をかけてしまったボクサーがいる。元WBA世界フライ級王者、元WBA、WB…
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<4>王座奪還は不可能なはずだった具志堅用高の幸運
日本人ボクサーといえば、忘れてはならないのが元WBAライトフライ級王者、具志堅用高だ。 世界王座を13回守り抜き、6戦連続KO防衛。カンムリワシの異名を取り、「100年に1度の天才」と言われ…
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<3>ペンを握る手に汗がにじんだタイソンの来日防衛戦
107回の世界戦でジャッジ、レフェリーを務めた私だが、あの一戦ほど緊張したことはない。 1988年3月21日、場所はわずか3日前に落成したばかりの東京ドーム。そう、初来日を果たしたマイク・タ…
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<2>世界タイトル奪取直前 無名のパッキャオが日本で試合
私の手元に一枚のチラシがある。98年に後楽園ホールで行われた興行の宣伝紙。メーンイベントを戦ったのは八王子中屋ジム所属の寺尾新と、後に6階級制覇の偉業を達成するマニー・パッキャオだ。 当時、…
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<1>薬師寺vs.辰吉 最終Rラウンド「10-10」の不可解
1994年12月4日。この日付を見れば、ボクシングファンは昨日のことのように記憶が蘇るだろう。薬師寺保栄と辰吉丈一郎、史上初となった日本人同士の王座統一戦だ。 WBC世界バンタム級王者の薬師…