保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(65)「昭和の大戦」「昭和の戦争」が意味するもの
戦時用語という枠内では大東亜戦争、戦後社会では太平洋戦争、この呼称を分析していくと、日本社会は呼称それ自体の中に思想や政治が持ち込まれていたことがわかってくる。しかし時代は戦後80年、昭和100年の…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(64)戦後80年、昭和100年の年に使うべき呼称とは
では新しい呼称はいかにあるべきか。この点について考えてみたい。改めて昭和の戦争総体を語る用語が必要になるのではないか。あえて私見を言えば、まだそのように語られていないにせよ、明治期の日清戦争、日露戦…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(63)「15年戦争」「アジア太平洋戦争」の呼び方のままでよいのか
太平洋戦争という語が戦後社会のオモテの言論として占領下では使われるようになり、そしてその後も一般的には用いられてきた。しかしこの意味は、太平洋戦争のみに重点があるように思えるとし、日中戦争をはじめ東…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(62)「大東亜戦争」と「太平洋戦争」という呼称にある共通点
昭和期の戦争の呼称が変化していくだろうと予測されるのだが、それが同時代史から歴史への変化という意味でもある。そして戦後社会を動かしてきたオモテの言論とウラの言論の境界を曖昧にして、新しい用語を生み出…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(60)「太平洋戦争」はいかに呼ばれてきたのか
前回紹介した(その1)のエピソードを見ても、戦争の呼称については大きく異なるケースがある。日中戦争でさえそうなのだから、太平洋戦争になるのならますます異なってくるのも当たり前と言っていいかもしれない…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(60)「大東亜戦争」「支那事変」――戦争の呼称問題を捉えなおす
それまで日本社会では、「大東亜戦争」という呼び方を用いていたが、実はこの「太平洋戦争史」はその呼び方を否定した。「太平洋戦争」という語が、この戦争の呼称になったのである。これまでの言い方になぞらえれ…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(59)非軍事化と民主化の歴史観を日本は受け入れていった
GHQ(連合国軍総司令部)が命じて、日本国内の各新聞に一斉に掲載させた「太平洋戦争史」にはいくつかの特徴があった。つまりはアメリカ側から見た戦争の見方を教えていた。そこにあるのは、非軍事化と民主化の…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(58)オモテから消えた「大東亜戦争」
ここであえて付け加えておくのだが太平洋戦争に関してウラとオモテの関係が逆転したのは敗戦の年の12月8日からである。GHQ(連合国軍総司令部)の命令により、この日の各新聞は「太平洋戦争史」という連載記…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(57)告げ口社会が生んだ「国民は無色」
戦時下で、ウラの言論とオモテの言論の違いを明確にするのが特高警察の逮捕状況を記録した文書である。これによると「平和」とか「自由」、さらには「戦争反対」などの語を用いた会話を交わすと、流言飛語の罪や戦…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(56)軍事権力者の暴力、思い込み、愚かさ
戦時用語の「国民は無色である」を詳細に分析していくと、軍事の権力者は、国民は無知な存在だと思い込むことで、自分たちの優位性を確保しようとしていたに過ぎないと思っていたことがわかる。情報も知識も与えず…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(55)同盟通信・森元治郎が書いた命がけの記事
ここで敗戦前後のある新聞記者の動きを紹介しておこう。この新聞記者・森元治郎から、その思い出話を取材したのは平成に入って間もない頃で、彼が顧問を務めていた国際協力事業団の一室においてであった。80代半…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(54)日本に降伏を促した「ザカライアス放送」
日本側とアメリカ側の相互の宣伝放送は、戦争末期になるとかなり様相が異なってきた。特に昭和20(1945)年6月に日本側は、本土決戦に備えて軍人のほとんどはこうした放送から離れて、その準備へと配属にな…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(53)ラジオ放送で続々と伝えられた日本軍の敗北
日本とアメリカの謀略放送に携わるスタッフの間で、どういう形であれ、コミュニケーションが成立していたというのである。むろん当初は戦争の当事国としての敵対感情で、互いに非難の応酬であったことは間違いない…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(52)日米謀略放送は「音の戦争」だった
「大本営発表」については、この連載でも極めていい加減であったという指摘は大まかにしてきた。虚偽や誇張の代名詞であったという指摘である。今回、戦時用語の「国民は無色」という視点から、この戦況報告を分析し…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(51)大本営発表は果たして国民を騙しえたのか
戦時下で国民が最も愚弄された例は、戦果を報告する「大本営発表」である。この発表についての詳細な当事者による総括はなされていない。私は、この発表が戦時下に何回行われ、どのような内容であったかについて基…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(50)東條英機が戦時下で豪語した「国民無色」論
本土決戦(九州、関東)の構想を見ていくと、軍事指導者の戦争論がどのようなものであったのかが、全く不明である。その目的も何のためか、が曖昧である。私はこのことについて、近代日本の歴史的欠陥を感じるのだ…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(49)「本土決戦」が戦争継続の道へと走らせたのだった
戦時用語としての「本土決戦」という語を通してうかがえるさまざまな光景を見てきた。今年は「昭和100年」という節目の年でもあり、本土決戦という語には、当事者の意思を超えた史実がまだいくつも伏せられてい…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(48)旧ソ連大使館員の背後にちらつく日本政府の影
私は、この件について軍人や外交官などからも聞いて歩いた。昭和の終わり頃である。すでに40年以上も経っていて、しかもさまざまな資料にも残っていないだけに、全ては事実として確認はできない。旧ソ連にせよ、…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(47)ソ連大使館員はなぜ、広島に行けたのか
8月6日の広島への原子爆弾のあと、駐日ソ連大使館の館員2人が広島に赴いた史実について、もう少し話を進めよう。ここには重大な意味が隠されているようなのだが、いまだ十分に調べられているとは思えないからだ…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(46)新型爆弾投下後、旧ソ連大使館員2人が広島に向かった
1945年7月から8月にかけて、原爆開発・製造の歴史上の史実を点検していくと、私たちには知らされていない事実がいくつかあることに気がつく。そのうちの2つを、私の取材体験から語っておきたい。前回はその…