「日本パラリンピックの父」の正体
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20年東京パラリンピックの聖火リレーは中村裕の銅像前から
■入居者15人がいまや従業員約1900人 中村裕は泉下の人になるまで身障者のために狂奔した、闘う医師だった。JR日豊本線、別府市の亀川駅から徒歩で5分ほどの「太陽の家」本部。開所当時の入所者は…
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人生の幕を閉じると上皇后お手摘みの生花が並べられ
1927(昭和2)年3月31日、卯年生まれ。「日本パラリンピックの父」と称された中村裕。卯年の3月生まれの男の運勢は、「ウサギの登り坂」という言葉があるように、行動を起こせば周囲に恵まれ、思い通りに…
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最後の仕事は「トヨタ」のネームバリューにこだわった
大分中村病院の院長でもある中村裕は、授産施設の「太陽の家」を率い、オムロン太陽、ソニー・太陽、ホンダ太陽、三菱商事太陽などの共同出資会社を次々と設立し、身障者を社会復帰させた。理念の「保護よりも機会…
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本田宗一郎も協力 中村を支えた有力「財界応援団」の面々
上皇を筆頭とした皇族が大分にいらっしゃれば、必ず「太陽の家」を視察。理事長の中村裕や身障者と親交を深めている――。 そう言われるようになったのは、1978年ころからだといわれる。昭和天皇をは…
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三笠宮殿下に「別府にとどまらせておくのは惜しい」と言われ…
「日本パラリンピックの父」の医師・中村裕は、稀有な人間だ。その性格は、「自分本位」で「せっかち」。 こんな逸話がある。自宅に居ても家族や近所迷惑を考えず、いつでも外出できるようにと一日中、夜も…
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初めてお会いしたのは上皇ご夫妻が皇太子時代の62年だった
中村裕は選手団長として海外の障がい者スポーツ大会に行く際、または帰国した際は必ず東宮御所に出向き、皇太子時代の上皇ご夫妻を表敬訪問。ときには卓球をし、親交を深めていた。 初めて中村が上皇ご夫…
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第1回フェスピック開催資金 財界や政治家から捻出した人物
「身障者のためです!」 これが「日本パラリンピックの父」医師・中村裕の殺し文句で、政治家や財界人に限らず、皇族も応援団に巻き込んだ。 「太陽の家」創設10周年の1975年6月。中村は、「…
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天皇陛下の国体視察を材料に…「太陽の家」周辺環境を一変
1964年の東京パラリンピック開催から1年後の10月。国立別府病院の医師・中村は、病院に隣接する土地を借金で購入し、身障者の授産施設である社会福祉法人「太陽の家」を創設した。命名者は身障者の娘を持つ…
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上皇ご夫妻ご観戦前日 車いすバスケの対戦チームまで変更させた
1964年の東京オリンピック終了後に開催された東京パラリンピック(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会)。招致に尽力したのが「日本パラリンピックの父」と称された医師の中村裕で、日本選手団団長を務…
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“パラリンピックの父”グッドマンと上皇ご夫妻を結びつけた
常に身障者に手を差し伸べてきた上皇ご夫妻。「日本パラリンピックの父」と称される医師・中村裕。両者の関係はほとんど知られていない。だが、中村こそが障がい者スポーツ推進のために上皇を筆頭とした皇室を「応…