最後の仕事は「トヨタ」のネームバリューにこだわった
大分中村病院の院長でもある中村裕は、授産施設の「太陽の家」を率い、オムロン太陽、ソニー・太陽、ホンダ太陽、三菱商事太陽などの共同出資会社を次々と設立し、身障者を社会復帰させた。理念の「保護よりも機会を!」を実行したのだ。
その最後の仕事は、鬼籍に入る3カ月前の1984年4月。愛知県蒲郡市に「愛知太陽の家」を開所し、トヨタ系列のデンソーとの協同出資会社「デンソー太陽」を設立した。
ところが、中村は不満だった。当時の「太陽の家」の職員が証言する。
「中村先生はデンソーではなく、“トヨタ”のネームバリューに執着し、『トヨタ太陽』にしたかった。デンソーには失礼だけど、先生は『車に乗らん人でもトヨタは知っとるけど、車に乗っとる人でもデンソーは知らん』と言っていた。とにかく、トヨタにこだわっていた」
そのためどうしたのか。
「先生は当時の愛知県議会議長に『私は県知事とトヨタの社長との3者で話し合いたい』と頼み込んだ。まあ、トヨタ側は社長ではなく、渋々副社長が出てきた。当然、先生はトヨタの名前を出すことを主張したんだが、副社長は『トヨタには身障者ができる仕事はない』と即答してきた」