佐高信「追悼譜」
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『産経新聞』出身で超タカ派の俵孝太郎が貫いた創価学会批判
『産経新聞』出身で保守派、というより超タカ派の俵とはほとんど意見が一致することはなかったが、創価学会批判には共鳴した。 2016年に出した拙著『自民党と創価学会』(集英社新書)の第1章は「『自…
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森永卓郎には「原発」と「学会」もメディアタブーとして指摘してほしかった
「戒名もいらない。葬式は絶対やらない。お墓もいらないし、遺骨は違法かもしれないが燃えないゴミで出しちゃってもいい。で、何も残さない。何も持たずに生まれてきて、 何も持たずに死んでいく」 『サンデ…
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三浦洸一はクラシック出身で「楷書派の美声歌手」と評された
往年の名歌手の三浦洸一は1928年1月1日に生まれた。翌2日に池田大作、6日前の12月26日に藤沢周平が生まれている。 本名は桑田利康で神奈川県三浦市の寺に生まれたため、芸名を三浦とし、将来…
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35年間、『産経新聞』の名物コラム「産経抄」を担当した石井英夫
ほぼ毎日行く目黒駅前の喫茶店で『産経新聞』を読む。購読する気はないが目を通しておきたい新聞でもあるからである。私のデビューが産経系の『夕刊フジ』ということもあって、知っている記者がかなりいる。当時は…
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私が谷川俊太郎にもう一度会いたいと思わなかったわけ
友人の小室等が歌う「死んだ男の残したものは」は谷川の詩である。 死んだ男の残したものは ひとりの妻とひとりの子ども 他には何も残さなかった 墓石ひとつ残さなかった …
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渡辺恒雄は権力者に成り上がり、徳間康快からスタジオジブリを”乗っ取った”
「昔をいえば、社主の正力松太郎さんの独裁時代はあったでしょうし、労組委員長の鈴木東民の独裁時代があったでしょう。当時、社長馬場恒吾の書く社説に鈴木が赤字を入れてたんですから、そういう共産党支配の時代が…
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敏腕検事として鳴らし出世も約束されていながら、サッと転身した堀田力の茶目っ気
堀田には『否認』(講談社文庫)という小説がある。本気で作家になりたかったという堀田のセンスを感じさせる作品である。 敏腕検事として鳴らし、出世も約束されながら、サッと転身して「さわやか福祉財…
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作家・小中陽太郎には「くやしいぐらい幸せな人生」という弔辞が似合う
辺見庸が書いている。 「だれかが言ったのだったか, じぶんがいまおもいついたのだったか、変な文言があたまを剃刀のようにかすめてゆく。生きるとは, ひとに死なれることだ」と。 確か…
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”角界のご意見番”として知られた横綱・北の富士は現役時代にいかにモテたか
私の郷里の酒田に「ちゃんこ北の富士」という店がある。北の富士の妹が酒田の人間と結婚して出した店である。 『俳句界』の2020年5月号で北の富士と対昭した時は、まだ、そこに行ったことがなかった。…
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「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾幹二とニーチェはなかなか結びつかなかった
西部邁が東大教授をやめるかやめないかが話題になっていた時、西尾は「西部は絶対やめないよ、何せ東大だよ」と言ったという。 東大卒で電気通信大の教授だった西尾には権威の最高峰の東大教授をやめるこ…
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”赤い宮様”と呼ばれた三笠宮の妃、百合子の人生は平穏なものではなかっただろう
天皇制には疑問があるが、三笠宮には親近感を持っている。101歳で亡くなった宮妃にではなく、2016年に100歳で逝去した宮にである。この夫妻には共著の句集『初雪』があるが、長女の甯子(のちに近衛忠輝…
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倍賞千恵子を見いだした音楽プロデューサー長田暁二の手腕
音楽文化研究家と訃報に書かれている長田(おさだ)については、『メディアの仕掛人 徳間康快』(講談社+α文庫)の取材のために会った時に聞いた話が忘れられない。 山口組の3代目組長の葬儀の日、徳…
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ピーコは「長嶋茂雄のことをうれしがっている人を見るのが嫌い」と言った
誕生日が私より1日前の1945年1月18日だ った。もちろん、おすぎも同じである。 おすぎとピーコの人気というか、”威力”を痛感させられたのは私の父の葬儀の時だった。2003年のそれにいろい…
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映画評論家・白井佳夫が竹中労の傑作『鞍馬天狗のおじさんは』を生んだのだ
私が『福翁自伝』と並ぶ自伝文学の傑作と呼ぶ竹中労の『鞍馬天狗のおじさんは』(ちくま文庫)は、白井の存在なくしては生まれなかった。この「聞書 アラカン一代」は竹中が『キネマ旬報』に連載した『日本映画縦…
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死刑囚・永山則夫を弁護した大谷恭子の激しさと優しさ
大谷はいわゆる過激派の永田洋子(連合赤軍最高幹部)らの弁護をした人として知られる。しかし、コワイ女性ではなく、姉と慕う福島みずほによれば”下町の太陽”と呼ばれるほど明るかった。実家は米屋である。 …
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イラストレーター山藤章二は「笑いには下克上の力がある」と言った
ライバル視された山藤と和田誠がそれぞれ『週刊文春』と『週刊朝日』の表紙を描いていたことがある。しかし、「この試合には負けました」と山藤は笑った。『サンサーラ』という雑誌の1996年8月号で対談した時…
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純文学とポルノ小説を往来した宇能鴻一郎の生きざま
前回の福田和也と坪内祐三との共著『羊頭狗肉』(扶桑社)を繰っていたら、宇能についての絶好のネタが出て来た。さまざまな追悼文でも触れられないだろう。 「宇能さんには『切腹願望』って作品があって、…
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福田和也とは、司馬遼太郎批判以外一致することろがなかった
私が”チンピラ保守”と批判した福田とは、江藤淳をめぐるシンポジウムで同席したことがある。福田を見出した江藤についての討論だったからケンカになることもなかったが、 江藤は西部邁と同じく、中身のない保守…
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高木剛・連合元会長が非正規社員に軸足を移さざるを得なくなった時
高木の回想録を読んでいたら、エッと驚く名前が出てきた。赤軍の小西隆裕である。よど号事件で北朝鮮に行ったままだという。 「奥さんも時々、北朝鮮に行っているよ。彼は東大の医学部で、俺が卒業するまで…
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アルベルト・フジモリを称賛したビートたけしや福田和也への疑問
『政治ジャーナリズムの罪と罰』を書いた田勢康弘とは同じ山形出身ということもあって一時親しくつきあったが、のちに疎遠となり、そのまま先に逝かれてしまった。権力との距離感が離れるキッカケで、フジモリ評価も…