佐高信「追悼譜」
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「日本で唯一ゲバラにあたる」男と評された革命家・滝田修の最期
本名の竹本信弘で死亡を報じられても誰のことかわからない。しかし、滝田修なら、一時、全共闘運動の指導者として、マスコミの寵児だった。同じ1940年生まれに唐十郎や王貞治、あるいはデヴィ夫人がいるが、彗…
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『夢は夜ひらく』を歌った藤圭子は「暗」だったが、園まりのそれは「明」だった
私が大学生のころだった。渡辺プロダクション、通称ナベプロの3人娘として、中尾ミ工、伊東ゆかりと共に園は華やかなスターだった。 そのスターが赤坂に花屋を開いていると知って行こうと思ったことが…
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「日本の医療と福祉を悪くしたのは医師会、製薬業界だけじゃない」徳田虎雄が問題視したのは
徳田と「日本の医療を考える」対談をしたのは『宝石』の1998年4月号でである。 徳田は私の『民食う人びと』という官僚批判を読み、医者の世界にも、病気になった「弱き患者を食う人びと」はいっぱい…
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『やすし・きよしの長い夏』著した「大毎」の名物記者・近藤勝重
近藤を私は『やすし・きよしの長い夏』(新潮社、のちにランダムハウス講談社文庫)の著者として記憶していた。しかし、私と同い年であり、鈴木琢磨や小国綾子など『毎日新聞』の後輩記者が深い悲しみと親しみをこ…
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ベストセラー『危険な思想家』を著した山田宗睦の晩年に感じる寂しさ
山田の『危険な思想家』は1965年に出てベストセラーとなった。私の学生時代である。副題が「戦後民主主義を否定する人びと」で版元はカッパ・ブックスの光文社だった。当時はまだ、こういう本が争って読まれた…
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国際経営学者・小林規威は日本企業の閉鎖性を歯噛みし続けただろう
国際経営学者の小林は、日本の企業は少しは「開国」したのか、それとも「鎖国」のままなのか、どう判断して亡くなったのだろうか? 慶大教授だった小林にインタビューしたのは、ほぼ50年前である。 …
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「サタカさんスケベでしょ」と言われて、作家・梁石日をいっぺんに好きになった
大分親しくなってから、2004年の暮れに『俳句界』という雑誌で対談した。 「梁さん、元は詩人です。このごろはまったくお書きになっていないようですが。あ、いまも詩人ですか?」 私がこう問…
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俳人・鷹羽狩行の句には山口誓子の句ような重量感はなかった
書家だった私の父は山形県新庄市の出身である。鷹羽も新庄市生まれと知って、会っておけばよかったなと思った。俳人協会理事長、会長、そして名誉会長の鷹羽の「知的な句風」に惹かれることはなかったが、本名の高…
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師匠の子どもの足を折った桂朝丸こと桂ざこばに抱いた親近感
あれはゼイタクな取材だった。現在は『新師弟物語』(岩波現代文庫)として読める「ドキュメント師弟」の連載を『夕刊フジ』でしていた1984年夏、新宿京王プラザホテルで桂米朝と枝雀に会った。「米朝枝雀親子…
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望月衣塑子が目指したジャーナリスト『ハーレムの熱い日々』の吉田ルイ子の先駆性
『東京新聞』の望月衣塑子は吉田を知ってジャーナリストをめざした。それまでは舞台女優になりたいと思っていたのである。中学生の時に会って握手をしてもらった。 2020年に出した私との対話『なぜ日本…
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謝罪をしそびれた脚本家・小山内美江子とのスレ違いは、やっぱり「定め」だったのか
その死を知った時、「しまった」と思った。 あることを謝罪しないままだったからである。 小山内の『我が人生、筋書き無し』(かまくら春秋社)にこんな一節がある。「JHPの活動」の章で、彼女は「JHP・学…
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福島県矢祭町元町長・根本良一は櫻井よし子と共に住基ネットに反対し続けた
地方自治法を改悪して国の統制を強めようと處している時に、それに敢然と抵抗した福島県矢祭町の元町長の根本が亡くなった。住民基本台帳ネットワークシステムに反対し続けた根本と対談するために矢祭町に行ったの…
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唐十郎は禁止やケンカが日常で、フジテレビに出入り禁止になった
山藤章二著となっている『軟派にっぽんの 100人』(集英社文庫)という本がある。 山藤がイラストを描き、20人の筆者がそれぞれ5人ずつについて人物エッセイを書く。 たとえば井上ひさしが若尾…
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フォトグラファー武田花は人にカメラを向けるのは恥ずかしくできないと猫を撮った
「司馬遷は生き恥さらした男である」と名著『司馬遷』を書き出した武田泰淳と、その盟友の竹内好らとのロシア旅行記『犬が星見た』で独特の感性を発揮した百合子との間に生まれた花は、やはりユニークなひとだった。…
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時事通信出身ながら典型的な”産経文化人”だった屋山太郎に聞きたかったこと
何年か前、『夕刊フジ』の記者が恐る恐るという感じで電話をよこして「サタカさんはウチになんかコメントするのはイヤでしょうが」と切り出した。それで私は「何を言ってんの、私のデビューは『フジ』だよ」と答え…
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フィンガー5を世に送り出すきっかけを作った歌手・仲宗根美樹が直面した数々の試練
伝説のレーベル、ベルウッドレコードのプロデューサー、三浦光紀は15歳からの私の親友だが、その三浦がフィリップスに移るのに仲宗根美樹が関わっている。 早稲田を出てキングレコードに入った三浦は、…
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日本航空の会長になっても鐘紡の社長を辞めなかった伊藤淳二という経営者
この人に私は『週刊現代』の連載をつぶされた。伊藤が45歳の時、クーデターを起こして鐘紡の社長になったことは、それをモデルにした城山三郎の『役員室午後三時』(新潮文庫)に明らかだが、その後、会長や名誉…
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悪役・脇役で知られた俳優・寺田農が喜劇役者三木のり平に師事していた想いは
喜劇役者、三木のり平の墓は、東京の地下鉄田原町駅近くの清光寺にある。本名は田沼則子。ノリコではなく、タダシと読む。『のり平のパーッといきましょう』(小学館)によれば、田沼は「おふくろの姓」で、父親の…
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”ヒモノ”国際政治学者 五百旗頭真の長すぎるスピーチには辟易した
ほぼ同年配のこの国際政治学者にして防衛大学校長をやった五百旗頭と同席したのは1回だけである。それも何百人も集まったところで、彼のあいさつを聞いていたに過ぎないから、触れ合ったとも言えないかもしれない…
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『気くばりのすすめ』がベストセラー 元NHKアナウンサー鈴木健二の押しつけがましさ
目が笑っていないという言い方があるが、 鈴木の笑顔が典型的なそれだと思ってきた。NHKのアナウンサーとして知られた鈴木は1982年に『気くばりのすすめ』という本を出し、およそ400万部のベストセラー…