五木寛之 流されゆく日々
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連載11392回 私の新宿漂流記 <7>
(昨日のつづき) 業界紙の編集室の窓から、私が隣りのストリップ劇場の女性たちにガーベラの花を投げた話の続きである。少し長いが我慢して読んでいただきたい。新宿2丁目の内外ビルでのスケッチである。 …
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連載11391回 私の新宿漂流記 <6>
(前週のつづき) 『デビューのころ』から、当時の2丁目のオフィスのことを書いた文章の一部を引く。 <私の働いていた編集室は、その映画館のちょうど楽屋口の真上にあった。楽屋口の先はせまい裏庭になって…
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連載11390回 私の新宿漂流記 <5>
(昨日のつづき) 新宿2丁目の内外ビルに居を構える零細業界紙の経営は、なかなか楽ではなかった。 そのために大和、日交、日の丸などの大手のタクシー会社のPRにも、あれこれと協力することになったの…
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連載11389回 私の新宿漂流記 <4>
(昨日のつづき) マスコミの底辺を這いずり回ったあげくに、私が業界紙の編集長にたどりついたのは、1950年代の終り頃だったのではないかと思う。 なにしろ昔のことは、ぜんぶ忘れてしまおうと心に決…
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連載11388回 私の新宿漂流記 <3>
(昨日のつづき) 私の生活に新宿が大きくかかわるようになってきたのは、60年代にはいってからである。 私が参加したのは、一応、極小業界紙といえども定期刊行物としての新聞である。しかし、編集長と…
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連載11387回 私の新宿漂流記 <2>
(昨日のつづき) 私は、あまり時系列的に自分の過去をふり返ったことがない。昔からそうだった。 したがって自分の過去についても、いま現在と対比させて思い出すだけで、すこぶる乱雑で断片的だ。 …
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連載11386回 私の新宿漂流記 <1>
私が東京へやってきたのは、昭和27年の春である。1952年、サンフランシスコ講和条約が発効した年だ。 当時は新幹線などという洒落たものはなかった。九州から普通列車を乗り継いで24時間以上かかった…
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連載11385回 九十歳の壁の先に <5>
(昨日のつづき) 前にも週刊誌に書いたことがあるが、人間と他の動物、植物との微妙な交感関係を感じることが多くなった。 私の古い友人から聞いた話である。 彼の家には一匹の犬がいた。やたらと吠…
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連載11384回 九十歳の壁の先に <4>
(昨日のつづき) 新聞を眺めていると、足腰の痛みに対処する薬品の広告が無闇に多いことに驚く。 やれ階段の上り降りが楽になるだの、嘘のように快適に歩けますなど、つい飛びつきたくなるようなコピーが…
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連載11383回 九十歳の壁の先に <3>
(昨日のつづき) まあ、そんなわけで、自分なりに歩く事に関しては自負するところがあったのだ。 中年になってからも『百寺巡礼』などという番組に出て、全国各地の寺々を歩き回っている。 前に何度…
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連載11382回 九十歳の壁の先に <2>
(昨日のつづき) ある年齢をこえると、人は誰でも身体的、精神的な不調を抱えることになる。 もちろん個人差はあるだろう。しかし、いくら壮健な心と体の持主であっても、人間はすべてひとしく衰退する。…
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連載11381回 九十歳の壁の先に <1>
あと数カ月で九十の壁に直面する。 無事に超えられるかどうかは、神、いや仏のみぞ知る、だ。 正直言って、七十歳、八十歳を迎えるときは、べつにそれを壁と思ったことはなかった。気がつけば、いつのま…
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連載11380回 難民・棄民・流民の時代 <5>
(昨日のつづき) 満州から逃げてきた人びとと一緒に暮すようになってからは、思い出したくもない日々が続いた。 発疹チフスのパンデミックが広がっていた。ペストは蚤が媒介するが、発疹チフスは虱が流行…
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連載11379回 難民・棄民・流民の時代 <4>
(昨日のつづき) 1945年8月。どこからともなく平壌の街に姿をあらわしたのは、異様な風体の人々だった。 男性は高齢者ばかりで、いわゆる女子供の集団である。女性は髪を切り、顔に泥や鍋墨を塗りた…
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連載11378回 難民・棄民・流民の時代 <3>
(昨日のつづき) 以上、述べたように「外地」に住む日本人にとって、「内地」は本国であり、故郷であった。 「外地」に骨を埋めようと決意していた人々もいたはずだが、そこは、いわゆる植民地である。 …
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連載11377回 難民・棄民・流民の時代 <2>
(昨日のつづき) 「引揚者」と言う。一般に、戦前、戦中に外地に住み、敗戦後、日本へ帰国した人々のことをそう呼ぶ。 この「外地」という言葉が問題だ。昭和の世界大恐慌の時代に、日本本土からもこぼれ落…
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連載11376回 難民・棄民・流民の時代 <1>
若い頃、といっても1950年代の後半のことだ。 当時、ラジオの仕事をしていて、録音構成の番組づくりを手伝っていた時代がある。 なにか変ったテーマで一本作ってみたいと企画書を書いた。 旧満…
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連載11375回 昭和の歌声は遥かに <4>
(昨日のつづき) 題名は忘れたが「ラバウル航空隊」の歌があった。また、「ああ 特幹の太刀洗」という歌も記憶に残っている。<特幹>というのは<特別幹部候補生>のことだろうか。 なんといっても広く…
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連載11374回 昭和の歌声は遥かに <3>
(昨日のつづき) 日本軍の軍歌は、おおむね短調で作曲されている。 そのために、ただ勇壮なだけでなく、一抹の哀愁が背後に流れていて、そこが国民にも受けた理由だろう。 『加藤隼戦闘隊』にしても、…
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連載11373回 昭和の歌声は遥かに <2>
(昨日のつづき) 戦後、というのは昭和20年夏、敗戦の日からはじまる季節だ。 敗戦直後は、私は外地にいた。だから引揚げてから後が私の戦後である。 仁川から米軍のリバティ船に乗って、博多港に…