元秘書が語る 素顔の田中角栄
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<第15回>オヤジさんが最も力を入れた政策は意外や教育
オヤジさんが政策に最も時間をかけ、政治家としての心血を注いできたのが、「教育」だった。 政調会長、蔵相、幹事長、総理大臣時代を通じて、一貫して子どもの教育の重要性を言い続けた。いわば、オヤジ…
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<第14回>国民のためなら与野党の垣根もない
「子供が10人いるから羊羹を均等に切るってのは共産主義。自由主義は別だよ。羊羹をチョンチョンと切ってね、一番年少の子に一番でっかい羊羹をやるんだ」 オヤジさんがいつも言っていた言葉だ。いま日本…
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<第13回>オヤジさんの仲人で4人だけの祝言
佐藤ママにとって私は弟のような存在だったのかもしれない。 そんな彼女からプレゼントというか、思いがけない提案があった。 佐藤さんがオヤジさんに言って、私の祝言を2人で開いてくれたのだ…
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<第12回>封がされていない中曽根さんからの手紙
オヤジさんとママのことについても触れたい。 ママとは、佐藤昭さん(後に昭子と改名)のことで、「越山会の女王」「角栄の愛人」として記憶されている方も多いかもしれない。 オヤジさんと佐藤…
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<第11回>「生意気を言うな」車中に怒声が響いた
四半世紀にも及んだ秘書生活の中でも、オヤジさんに本気で怒られた記憶は2度しかない。 1度目はまだ国会でアルバイトをしていた高校生の頃で、「高校を出たら板前の修業をしたい」と言う僕に、オヤジさ…
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<第10回>練習6カ月 帝王の目の前でロングパットを決める
オヤジさんは50歳手前でゴルフを始めた。元来が凝り性の性格のため、すぐに夢中になった。ただ、すぐにコースへ出たわけではない。ここがオヤジさんらしいところだが、まずは座学だった。 「おい、ちょっ…
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<第9回>「おい、ハマちゃん、石がズレてるよ」
パタパタ、パタパタ。オヤジさんの持つ扇子の動きが速まる。 これは将棋の形勢が不利になった時のしぐさ。逆に優勢だと、扇子のあおぎ方もゆっくりとなり、時に鼻歌が交じる。オヤジさんは大変な暑がりで…
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<第8回>総勢1000人の秘書団がオヤジさんを支えていた
今でこそ政治家とマスコミの距離感が問題視されているが、当時のマスコミは、番記者も政治家の応援団になり、角福戦争などに一緒に挑んでいた。 新聞社やテレビ局の記者たちが、互いに分かれて応援合戦を…
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<第7回>「懐かしいな」と言って口ずさんだ“ヨコチンの歌”
オヤジさんは歌がうまかった。よく口ずさんでいたのは、森繁久弥さんの「ゴンドラの唄」だ。 ♪いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に~ これを節回しを利かせて、ゴルフに行っ…
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<第6回>何か食べるとなると天ぷら、すきやき、中華だった
古希を過ぎた今でも、僕は料理人になりたいと思っている。どうしたわけか政治の畑に入ってしまったが、それは見えない運命というものだ。 料理の勉強をしていないから何が得意というレベルでもないが、昔…
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<第5回>「予算編成で徹夜の官僚に札束ポン」は完全な出まかせ
「朝賀よ、あれ読んでどうも違和感を覚えるんだけど。オヤジさんは自分のことを“オレ”って言わなかったよなぁ」 「私もそう思いました。でも、石原さんが書かれた一人称の小説ですので、そういう表現になっ…
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<第4回>「うちの細君は偉いよ」といつも言っていた
「遠慮なく大臣室に来てください。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う!」 この大蔵大臣就任演説を、当時、学生ながら秘書のようなことをしていた僕は…
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<第3回>「全ての責任はこの田中角栄が背負う!」
高校を卒業したら板前になると話した僕を、オヤジさんは烈火のごとく叱りました。 「学問を軽んじるヤツは出入り禁止だ!」 オヤジさんは実力では誰にも負けないが、学歴では並大抵ではない苦労を…
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<第2回>「学問は人生の邪魔にならん」
僕がオヤジさん(田中角栄)と出会ったのは、昭和36年の18歳の時。当時は高校3年生で、夏休みの間のアルバイト先を探していた。 アルバイトといっても、当時は高校生が働ける場所は少なく、あっても…
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<第1回>「君たちはホウヒも知らんのか」
ある日、オヤジさんがあの独特のダミ声で「おまえらな」といきなり言ったことがあった。 目白の自宅の私室の隣に座談するようなちょっとした部屋があって、そこに若い代議士が4、5人集まって法律の議論…