「鎌倉物語」永遠の伝説・原節子
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<第23回> 永遠の伝説となった精神の貴族
司葉子さんが原節子が亡くなる4カ月ほど前にぼくの取材にこう答えている。 いまも時々、電話で1時間ぐらい話しています。何から何まで話していますね。意外と政治にも詳しいんです。新聞を隅から隅まで…
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何mか向こうで、原節子が息をしていると思うだけで感無量
数年前に原節子が施設に入所したという噂が流れたが、それはガセだった。偶然手に入れた、2005年11月25日発行の「ゆめクラブ鎌倉やまもも」という鎌倉の老人クラブの会員広報誌に、門田京蔵さんという方が…
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<第21回> 小津安二郎の通夜に弔問に訪れて玄関で号泣
1963(昭和38)年10月から、小津安二郎はがんのため東京医科歯科大学医学部付属病院に再入院、佐田啓二、岩下志麻さん、岡田茉莉子ら小津映画に出演したスタッフ、キャストの多くが見舞いに訪れたが、その…
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<第20回> 引退宣言することなく42歳でフェードアウト
1951年11月17日、小津安二郎は日記に記している。「このところ、原節子との結婚の噂しきりなり」と。この時期、原節子は結婚についてさまざまなインタビューを受けている。それには映画界のこんな背景があ…
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引退に諸説 実際に小津安二郎監督との仲はどうだったのか
原節子の引退には諸説ある。白内障が悪化した、強烈なライトで目を痛めた、前述の実兄の事故死、映画が衰退し、自身も40代に差しかかり、主役の仕事も来なくなった、衰えた美貌を見られたくなかった等々。ノンフ…
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<第18回> 役柄の狭さも自覚「本当言うといい仕事したい」
原節子は自分の役柄の狭さを1958年11月3日の東京新聞のインタビューで述べている。 わたしみたいに中途半端な年齢で、しかも役柄がせまいと、なかなか適当な作品もなく、それでつい十カ月も遊んで…
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<第17回> スクリーンでは大柄に見えるが実際の身長は…
鎌倉の春はいいわ。いつもお仕事でゆっくり味わえないンだけど、桜咲く頃、一日春の花吹雪のなかでじっとしていたいわ。(「近代映画」1952年5月号) これは原節子の鎌倉の家を近代映画の記者が来訪…
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三船さんて素敵だなアって、ふと思ったことがあったわ
前出の映画プロデューサーの藤本真澄がこんな発言をしている。藤本のがんが進行し、手術を終えた後、安部公房の芝居の帰りに脚本家の白坂依志夫と出くわし、バーで飲んだ、以下はその証言である。 原節子…
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<第15回> 恋愛はすべて義兄の熊谷久虎に潰された
「週刊新潮」(2015年12月10日号)はさらに、昭和20年代に、下北沢にあった「マコト」という喫茶店のアルバイトの証言を載せている。 「ある日ママに“明日は藤本先生が来るから2階の部屋をよく掃…
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<第14回>「永遠の処女」とマッカーサーの愛人説
原節子は人並みに結婚願望もあれば、子供も欲しい時期があった。原節子といえば、「永遠の処女」という言葉が付きものである。実際に交際関係はどうだったのだろうか。「週刊新潮」(2015年12月10日号)に…
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終戦直後が経済的にも、精神的にも最も苦しい時代でした
また、原節子は経済学者の向坂逸郎との「中央公論」(1957年11月号)での対談でこんな発言もしている。ぼくが気になった原節子のコメントの部分だけランダムに抜き書きしてみよう。 あたくしも歩く…
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<第12回> 司葉子が明かす意外なエピソードの数々
女優の司葉子さんは日本の映画人で唯一、原節子と接点があった方である。原節子がまだ健在だった晩春のある日、鎌倉の川喜多映画記念館で話を伺った。 「原節子さんと初めてお目にかかったときは、近寄りが…
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<第11回> 人前に出るのをはばかっていた理由は…
前述したように原節子の次姉が、熊谷久虎監督夫人である。そして、松竹にいた番匠義彰という監督の奥さんが原節子の四姉である。ただし、この2人は夫婦別れしている。山内静夫さんはその番匠義彰監督とずいぶん仕…
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毎日飲んでいた原節子 大のビール党でたばこは1日40本
原節子はビール党だった。酒にまつわる原節子のインタビューを少し紹介しておこう。 お正月のオトソで味をしめて少しずつ、一合位飲み出したのは二十三、四の頃からかしら。それが終戦後、電気事情が悪い…
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<第9回> まず読書、次が泣くこと、その次がビール…
香川京子さん(写真)は「東京物語」で原節子と共演している。2015年、鎌倉で「東京物語」の上映会と香川さんのトークショーがあった。香川さんは子供の頃は引っ込み思案で、将来女優になることなど夢にも思わ…
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<第8回> 映画「東京物語」の紀子役に込められた寓意
原節子の鎌倉の家とは熊谷久虎の家だったのである。原節子は鎌倉の家について、「近代映画」(1951年12月号)でこんなコメントを寄せている。 どうぞ、だけど、見た通りよ。下はこの通り一部屋だし…
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<第7回>「わたくし猾いんです」の台詞は小津なりの皮肉か
これは戦後の混迷期だが、1948(昭和23)年、原節子はやりくりして東京の狛江に600坪の土地を買った。その後、周辺の土地を買い足し、900坪になった。後年、原節子は都内各地や神奈川県下に土地を購入…
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<第6回> 公務員の初任給が6500円の時代に映画1本300万円
「麥秋」の出演を巡って原節子と小津安二郎にはこんなやり取りがあった。原と小津の間に入って取り次いだのは、シナリオライターで映画監督の沢村勉である。沢村は鎌倉の浄明寺の原節子の家のすぐ近くに住んでいた。…
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<第5回> 小津安二郎=鎌倉というイメージが定着した理由
「晩春」は「青い山脈」と同じく1949年の公開。原節子が小津映画に初めて出演した作品である。冒頭は北鎌倉の駅舎からはじまる。そして、円覚寺でのお茶会。原節子は笠智衆演じる北鎌倉に住む、大学教授・曾宮周…
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<第4回>大根役者説は本当か? 小津安二郎は再三否定した
原節子には小津安二郎の映画で、「紀子3部作」といわれる作品がある。紀子という名の役(それぞれ役柄が違う)を原節子が3作品演じた。「晩春」「麥秋」「東京物語」である。いずれも映画史上に残る傑作で、脚本…