保阪正康 日本史縦横無尽
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玉音放送を聴いて涙しなかった鈴木貫太郎首相の心理
私が、なるほどと思った涙は、国務相の緒方竹虎の秘書官でもあった中村正吾(元、朝日新聞記者)の著作に書かれている涙である。中村は次のように書いている。 「(玉音放送を聞いて)陛下の一言一句に思は…
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自決した阿南惟幾陸相の涙の意味
8月14日の第2回の御前会議で、天皇のポツダム宣言受諾の確認を聞いた時に、出席者は誰もが一様に涙を流した。この涙は何だったのか。もっともわかりやすいのは軍人の涙だ。 例えば阿南惟幾陸相は御前…
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8月15日に泣いた人、泣かぬ人
政治、軍事指導者は、なぜあれほど泣いたのであろうか。かつて私は、戦後40年目の時に「敗戦前後.40年目の検証」という書を刊行したことがある(1985年、朝日新聞社刊)。その中で8月15日には果たして…
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御前会議における受諾派と拒絶派の論争
第1回の御前会議で、天皇の「聖断」が明らかになると出席者の誰もが涙を流して、その発言を聞いていたという。慟哭のあまり、椅子から落ちるものもいたというのだが、戦争終結がこういう形で終わることには、涙以…
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昭和天皇の「聖断」を読み解く
いわゆる昭和天皇の「聖断」とは、「私の意見というのは、外務大臣の申していることに同意である」との一言である。重要なことは、「私の意見は」とか「私はかく思う」と言った言い方ではなく、外務大臣の意見に賛…
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1945年8月9日に開かれた御前会議の「本質」
国策の最終決定のための御前会議は、8月9日午後11時50分に皇居の御文庫地下防空壕で開かれた。出席者は7人である。一応その名を列記しておくと、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津美治郎参謀総…
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広島原爆投下からの75時間で軍事指導者の資質が問われた
広島への原爆投下から75時間後、長崎にも原爆が投下された。この間、当時の政治、軍事指導者は、ポツダム宣言の受諾をめぐってそれぞれの立場で受諾(終戦)か拒否(戦争継続)かの論議を続けていた。今にして思…
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最高戦争指導会議は広島への原爆投下3日後にようやく開かれた
広島への原子爆弾投下のあと、トルーマン大統領もはっきりとこれは原爆であると世界に告げた。鈴木貫太郎首相や東郷茂徳外相はこの事実を、国民に伝えるべきだと主張した。しかし陸海軍の本土決戦派は「これは謀略…
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日本の敗戦に関わる私の6つの視点
広島への原爆投下は、日本の軍事的敗戦を明確にすることになったが、それでもなお聖戦継続を主張する軍事指導部は、改めてその責任を問われなければならない。 戦後の日本社会はその点が実に曖昧であり、…
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原爆投下へ、戦争継続を譲らなかった日米の強行派
結局、鈴木貫太郎首相は「これを黙殺する。聖戦完遂に努める」との発言をすることになる。まずこの発言が、結果的に誤解を生んだという言い方をされて、歴史的には第一の錯誤という言い方がされることになった。こ…
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鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を「黙殺するだけ」と答えた
穏健な訳語を用いた外務省訳のポツダム宣言は、天皇の元にも届けられた。外相の東郷茂徳は鈴木貫太郎首相の元にも訳文を持ってきた。13項目の文書のうち、最後の項目は次のようになっていた。 「我々は日…
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賊軍の系譜をひく政治家にとっての天皇
鈴木貫太郎が首相になって、終戦の道を模索していくのだが、ポツダム宣言が発せられるまでを第1幕とするならば、この間は鈴木にとっても、昭和天皇にとっても、軍部の強硬派といかに折り合いをつけるかが日々の仕…
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ポツダム宣言前、賊軍派による対ソ政治工作は拙かった
ソ連を仲介とする案が国策上もひとまず決定したが、そのための具体策は首相、外相の経験者である広田弘毅がソ連の駐日大使のヤコフ・マリクと会って反応を打診することにあった。広田はマリクと外交官仲間というこ…
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ロシア・ソ連に仲介役を頼んだ大日本帝国の大失敗
ソ連を仲介役とする案が表面化するのは、ソ連自体がこの中立条約の破棄を通告したことが、実は最大の理由だと言える。鈴木貫太郎内閣の誕生から間もなくの頃であり、通告から1年後に自動的にこの条約は効力を失う…
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明治維新から太平洋戦争まで続く77年の対立の終着点
太平洋戦争の最終段階というべき4カ月間、鈴木貫太郎の役割は天皇の意思を理解する一方、もう一方で軍部の強硬派である本土決戦に固執する指導部や作戦参謀などをなだめつつの日々であった。この構図の中に明治維…
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鈴木貫太郎が戦っていたのは徹底抗戦派ではなく官軍的心理であった
鈴木貫太郎首相は自らの周辺では、それとなく日本が戦う状態にないこと、さらには講和の意思もあることを漏らしている。しかし表向きは、聖戦完遂という姿勢も貫いている。すでに紹介したように、官軍的手法や心理…
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鈴木貫太郎は戦争終結を求めてアメリカにメッセージを送った
昭和天皇と鈴木貫太郎のコンビは、官軍的発想や手法といかに戦ったかを続けていくことにするが、鈴木の「演技」は命懸けの戦いでもあった。本土決戦を呼号する軍事指導部、それに追随する政治家や言論人、官僚、経…
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鈴木貫太郎は2つの覚悟を貫くために本心を隠して演じ切った
昭和天皇と鈴木貫太郎が心を通じ合う形で、太平洋戦争の敗戦を受け入れる体制を固めていくのは、ある意味で近代史の軍事主導体制にひとまずの決着をつけることを意味していたと言える。それは薩長閥を軸にして始ま…
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近代史の出発点である明治天皇、終着点の昭和天皇の違い
こうして昭和天皇と鈴木貫太郎という近代史総決算の布陣が出来上がった。これは明治維新時に大久保利通や大村益次郎など、薩長の指導者が明治天皇と共にこの国の新しい方向性を確立するための体制と共通するものが…
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藤田尚徳侍従長は昭和天皇が“大政奉還”をした光景に立ち会った
昭和天皇が鈴木貫太郎に会って、大命降下を受けてほしいと頼み込む光景は、実はその場に立ち会った侍従長の藤田尚徳の回想録に余すところなく書かれている。このシリーズでも一部触れたことがあるのだが、藤田の筆…