保阪正康 日本史縦横無尽
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人間宣言ではなく終戦詔書に平和論の原点を読む
今回も京大学生自治会(同学会)が、天皇に手渡そうとした公開質問状を説明しているわけだが、質問状の第5項はなかなか興味深い。その部分を公開質問状から引用しておこう。 「広島、長崎の原爆の悲惨は、…
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「人間天皇に訴う」、注目すべき京大生の公開質問状
全国巡幸の折に、京大に赴いた昭和天皇に、学生自治会(同学会)が公開質問状を手渡したいと申し出たが、大学側はそれを拒否している。当時の新聞などを読むと、学生たちは巡幸当日(昭和26=1951=年11月…
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巡幸した天皇に質問状を渡そうとした京大生
全国巡幸の中で、極めて政治的な意味合いが強かったケースも語っておかなければならない。どの地でも天皇が歓迎され、相応に日本社会の新しい象徴となるべき存在だと認められたわけではない。むろん天皇制反対の声…
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日本人にとって天皇制の姿をまざまざと見たGHQ
天皇の全国巡幸時のエピソードをさらに見ていきたい。これは神奈川巡幸になるのだが、久里浜の引き揚げ者共同住宅でのことであったが、たまたま天皇は南方要域からの帰還の下士官や若手将校の一団の部屋に入った。…
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天皇全国巡幸では関係者の検便までがなされていた
全国巡幸は、昭和21(1946)年2月の神奈川巡幸を試験的に試み、それによって幾つかの暗黙の了解がつくられて、そして全国巡幸になった。昭和29(1954)年8月の北海道巡幸までのおよそ8年間に、昭和…
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戦後混乱期に現れた自称天皇たちの顛末
さて全国巡幸についていささか脇道にそれる話(それも最初の試みの神奈川巡幸の話ではないのだが)を、語っておくことにしたい。 GHQ(連合国軍総司令部)の内部では、日本の民主化と非軍事化を徹底し…
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欧米のカメラマンの“不作法”にも天皇は鷹揚に構えた
もうひとつ、宮内庁や日本の警備当局が恐れた出来事も顕在化した。この全国巡幸の試験的試みは、当然なことに外国のメディアも多数取材に駆けつけている。日本の新聞記者やカメラマンは、天皇の民情視察ともいうべ…
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全国巡幸が天皇を変えていくことになった
この初めての天皇による民情視察について、もう少し詳しく書いておこう。マッカーサーの内諾を得たとはいえ、この巡幸に政府や宮内庁は特に不安を募らせていた。本来の記述から少し外れるエピソードをまずは2、3…
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GHQは人間・天皇の全国巡幸を注視した
天皇はマッカーサーを軸にしたGHQ(連合国軍総司令部)との交渉では極めて巧みであった。むろんマッカーサーには、天皇を利用して占領統治を円滑に進めて、ヨーロッパのアメリカ軍をはじめ連合国軍を指揮してい…
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人間宣言か民主主義の宣言か
五箇条の御誓文を入れたいというのが、自分の意思であり、人間宣言などの部分は、その次の問題であった、と天皇は発言した。昭和52(1977)年8月の記者会見の席である。天皇の真意は次のようになるであろう…
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「人間宣言」は「五箇条の御誓文」を冒頭に置いた
昭和21(1946)年1月1日、天皇はいわゆる「人間宣言」を発した。正確には「新日本建設に関する詔書」というのだが、その骨格は「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単な…
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天皇とマッカーサーの「黙契」
あえて触れておくが、天皇とマッカーサーの会見は11回行われているが、そこで何が話し合われたかは具体的にはわかっていない。通訳は都合3人であったが、奥村勝蔵、寺崎英成、松井明のいずれも、限定された枠内…
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2人は会見を重ねるうちに戦後日本への共通理解を得た
昭和天皇とマッカーサーの会見は、現代史の出発点のセレモニー(儀式)だったということになるだろう。さまざまな形でこの会見は語られているのだが、本質的には敗戦国の君主が戦勝国の指導者に儀礼的な挨拶、戦争…
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天皇・マッカーサー会見に影響を与えていた東京裁判
奥村勝蔵の立場が極めて微妙だったというのは、東京裁判の進み具合によってというべきであった。東京裁判は、昭和22(1947)年2月にひとまず検察側の訴因55に対する立証を終えたのだが、それ以後、被告た…
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真珠湾攻撃だまし討ちの原因とされた奥村勝蔵
第4回の天皇とマッカーサーの会見は、昭和22(1947)年5月6日である。第2回、第3回の通訳は、やはり外交官だった寺崎英成である。第5回も寺崎であった。第6回以降は松井明が主に担当したといわれてい…
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天皇は「責任」という語を持つ必要はなかった
私の分析が誤解か否かは歴史的に断を下すほどの史料はない。だが昭和天皇の発言を丹念に追いかけるとわかるのだが、決して用いない表現があることに気がつく。その一つが「責任」という語である。それゆえの分析な…
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天皇は戦争の全責任を負うと本当に語ったのか
マッカーサーの回想記と外務省、宮内庁の第1回の会見録との間にある重要な差異について、検討を加えることは天皇の戦争責任を考える上でも極めて重要である。そこで奥村勝蔵の残した記録について、私なりの分析を…
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天皇・マッカーサー会見の真相を追う
では天皇とマッカーサーの会見の内容はどのようなものだったのか。この内容について、平成14(2002)年までは日本政府も公式には発表していない。ところが2001年の真珠湾攻撃から60年目の年に、幾つか…
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米国大使館に自ら訪問した天皇の姿が国民に与えた衝撃
マッカーサーが東京に着任してから、天皇とはいつ会うのか、それはマッカーサーが天皇を呼び出すのか、それとも天皇の側から訪問を打診するのか、あるいはマッカーサーは会わずに戦争犯罪裁判の被告に指定するのか…
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現在の立ち位置を確認する上で必要なのは「自責の念」
今年(2024年)は、昭和が誕生してから99年である。その昭和が終わってからは、35年である。昭和は〈昭和20(1945)年〉を挟んでそれまでを近代史、そしてそれ以降を現代史がスタートしたという分け…