保阪正康 日本史縦横無尽
-
天皇・マッカーサー会見の真相を追う
では天皇とマッカーサーの会見の内容はどのようなものだったのか。この内容について、平成14(2002)年までは日本政府も公式には発表していない。ところが2001年の真珠湾攻撃から60年目の年に、幾つか…
-
米国大使館に自ら訪問した天皇の姿が国民に与えた衝撃
マッカーサーが東京に着任してから、天皇とはいつ会うのか、それはマッカーサーが天皇を呼び出すのか、それとも天皇の側から訪問を打診するのか、あるいはマッカーサーは会わずに戦争犯罪裁判の被告に指定するのか…
-
現在の立ち位置を確認する上で必要なのは「自責の念」
今年(2024年)は、昭和が誕生してから99年である。その昭和が終わってからは、35年である。昭和は〈昭和20(1945)年〉を挟んでそれまでを近代史、そしてそれ以降を現代史がスタートしたという分け…
-
マッカーサーが急がせた「人権指令」
東久邇宮内閣の辞表提出は、極めて正直であった。連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官であるマッカーサーから、日本民主化の具体的方針が相次いで示された。その基本方針は、これまでの日本軍国主義の解体、次い…
-
投書に著名人ブレーン、新時代を目指した東久邇宮内閣
東久邇宮首相は、国民に向けてラジオで、自らの所信を明らかにすると言って、「大詔に御示し遊ばされた陛下の思召を奉戴し、一糸乱れざる足並みを以て、難局の打開に進む」という一節を声高に述べた。天皇制国家を…
-
終戦直後に皇族内閣が誕生した理由
占領期間の現代史を俯瞰するとき、GHQ(連合国軍総司令部)の総司令官マッカーサーについては、まだまだこれからも触れていく。ここでその占領政策に対応する日本側の政治機構はどう対応したのか、その史実を多…
-
マッカーサーに告げ口し媚びた日本人の投書
マッカーサー宛ての書簡に共通しているのは、戦争を進めた軍事政権への怒り、政府が戦争の実態を国民に知らせていないこと、さらに自らの周囲にいる要領の良い人を名指しで告げ口していることなどである。中には、…
-
日本国民はマッカーサーを新しい指導者としてあがめたのだった
日本近代史の終焉は、昭和20(1945)年8月15日である。むろんこの日は軍事的に敗北を認めたわけだが、政治的には9月2日の東京湾に停泊するミズーリ号上での降伏文書への調印である。日本はGHQ(連合…
-
江戸鎖国時代は270年、日本近代史はまだ156年
今、歴史上の時代区分として日本近代史が昭和20(1945)年8月15日に終わり、それ以降から現在までをさしあたり日本現代史と称する見方が一般的だ。明治元年以降を日本近現代史と評する言い方もある。いず…
-
近代史における軍人教育の最大の欠陥
清瀬一郎の意図はどこにあったのだろうか。私は東條英機が書き残した手記に触れて、すぐに幾つかの理解にたどり着いた。むろん推測交じりの分析になるのだが、まず清瀬は、東京裁判では敗戦の段階で、東條はクーデ…
-
戦争を始めた指導者によって戦争は終わらない
二重構造の影の部分、つまり反乱の青年将校は現役の指導部の反対で、クーデター計画が頓挫した場合、影の部分を表に出す意図があったのだろう。それがもうひとつの大掛かりな計画であったように思える。しかしこれ…
-
二重性を持っていたクーデター計画
昭和天皇は、東條英機を信用しなくなったことを直接口にしていない。その理由は、戦後すぐに側近たちに語りおろした「昭和天皇独白録」を読むとある程度うかがえる。天皇は、東條がいくつものポストを抱えて、そし…
-
天皇を巧みに利用してきた東條英機
重臣として、天皇に意見を述べた時の東條英機の発言内容は、すでに聖慮が明らかになった以上、私は意見を控えると言いながら、その実、現状でこの宣言を受け入れることには反対の内容を伝えている(8月10日)。…
-
東條英機話法を読む
東條英機論をもう少し続ける。なぜなら太平洋戦争を担った軍事指導者の性格は、この戦争の帰趨に多くの影を落としているからだ。昭和20(1945)年8月10日から14日までの5日間は、この戦争の終結に至る…
-
承詔必謹の側に擦り寄った東條英機の狙い
8月15日のクーデターは、二重構造になっていたというのが、私の見立てである。その構造について、すでに大枠は理解できたであろうが、中堅将校たちは、一の矢を放っていながら、それが実らないとわかると強硬派…
-
クーデター強硬派陸軍中堅将校たちの暴走
第2回の御前会議、それに続く閣議と、8月14日(昭和20年)は過ぎていったのだが、このクーデター案は着実に実行に移されていった。案の5項目は、陸相、参謀総長、東部軍司令官、近衛師団長の4人が案に賛成…
-
第2回御前会議に向けたクーデター派の攻防
このクーデター案が、陸相の阿南惟幾に説明されたのは、13日の午後9時である。第1回の御前会議と第2回の御前会議の間、つまりこの間4日間ほどあるわけだが、聖慮を含めて鈴木貫太郎内閣は、敗戦を受け入れる…
-
陸軍将校のクーデター案の二重構造を解剖する
陸軍省の中堅将校が考えていたクーデター計画の骨子は、二重構造になっていたかのように見えた。つまり現役の阿南惟幾陸相に了解を求める案と、それが成功しなければ別な人物を推して戒厳令を敷く軍事政権を、とい…
-
クーデター派の担ぎ出しに東條英機は何を思っていたのか
東條英機を担いで本土決戦に持ち込もうとするクーデター派の構想は、東條の性格をよく見抜いていた。東條の戦争観は2点に絞られた。第1点は、国民の戦争意欲は全く衰えてなく、青年は一身を捧げることを喜んで死…
-
「東條元首相手記」の発見により長年の疑問は氷解した
あえて東條英機を敗戦時にはピエロの役割を与えられていた、と私が言う理由は、ある構図が理解できれば、なんともわかりやすい。その構図こそ、今なお伏せられているクーデター計画、ないし軍事政権による聖戦完遂…