保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「伴食宰相」(14)社会党委員長・村山富市の連立政権を支えた「戦争体験共有世代」
D群の中の村山富市首相も伴食宰相とはいえない。何しろ55年体制の与党と野党が連立政権を組んだのである。この事実は戦後日本の姿を解析するときの重要なヒントを与えている。つまり東西冷戦下の日本は巧妙な姿…
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シリーズ「伴食宰相」(13)祖父・近衛文麿を超えることができなかった、祖父譲りの細川護熙
細川護熙首相の清潔なイメージは、政治とカネにまつわるどのようなエピソードも拒絶する空気を生んでいた。実際に取り組むべきテーマは多かったのだが、やはり政治改革が重要であった。それはつまりは選挙制度の改…
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シリーズ「伴食宰相」(12)近衛文麿の孫である細川護熙総理への期待の末路
細川護熙と村山富市の2人の首相は、伴食宰相というわけにはいかない。なぜなら2人は、首相のポストに就いたということ自体が歴史的意味を持ったからだ。D群の中のこの2人について歴史的な意味を考察しておこう…
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シリーズ「伴食宰相」(11)近衛文麿を祖父に持つ細川護熙が自民党支配を倒した歴史的意味
D群の10人の首相の中で在任期間に関係なく、歴史上に名を残す首相が2人いる。1人は細川護熙首相、もう1人が村山富市首相である。この2人はその評価の対象になる柱が決まっているからだ。同時に日本の議会政…
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シリーズ「伴食宰相」(10)13年の間に10人の首相が生まれた昭和末期から平成初期の混乱
昭和時代の32人の首相の在任期間を整理してみると、平均して23カ月になる。2年に満たないのだ。その中でも最短は2カ月か3カ月になるのだが、健康上の理由で身を引いた石橋湛山のような例はその評価が落ちる…
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シリーズ「伴食宰相」(9)鈴木善幸と伊東正義は自民党ハト派の良識を支えた
東西冷戦下でのレーガン戦略に組みこまれざるを得ないのが、鈴木善幸内閣の宿命であった。それとどう向き合ったのか、その姿勢をいかに解釈するかで、鈴木首相はC群の他の3人(三木武夫、福田赳夫、大平正芳)と…
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シリーズ「伴食宰相」(8)社会党に所属した経歴を持つ自民党の総理として
昭和50年代の首相は濃淡の違いこそあれ、あの戦争に30代、40代で関わったが故もあるのだろうが、心中には「戦争は二度と繰り返さない」の信念を持っていた。特にC群の4人にはそれが共通していた。福田赳夫…
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シリーズ「伴食宰相」(7)本人も予想外だった鈴木善幸総理、恬淡だった就任と退陣
首相が短期間に辞める時期が昭和の議会政治上には3回あったと書いてきた。そして昭和から平成にかけての時期にも、そういう例があった。その時期をA群、B群、C群、そしてD群と称して、それぞれの時期の首相の…
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シリーズ「伴食宰相」(6)田中角栄の執念が生み出した“使い捨て総理”たち
昭和史の中で、首相を使い捨てのような時代が3回あった。あえて付け加えると、昭和から平成にかけてもそのような現象があり、都合4回を数えることができると記してきた。首相自身に何かが欠落しているというのが…
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シリーズ「伴食宰相」(5)社会党左派が幼稚だったのか、片山哲が無能だったのか
片山哲内閣は、新憲法下で初めて誕生した内閣である。総選挙(昭和22年=1947年4月25日)で第1党になったのは社会党で143議席、次いで保守系の自由党が131議席、民主党は124議席、そして国民協…
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シリーズ「伴食宰相」(4)東久邇宮稔彦は2つの大きな屈辱を味わった
A群の首相は結局、近衛文麿を除いては表現は悪いが「使い捨て」という言い方ができた。ではその他の群の短命内閣はどのような特徴があるのだろうか。昭和中期のB群、昭和後期のC群などはどうだろうか。こんな人…
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シリーズ「伴食宰相」(3)阿部信行に見る昭和10年代の短命内閣に共通する4つのこと
昭和10年代の首相が目まぐるしく変わった時代の2人の首相(林銑十郎、平沼騏一郎)の実像を見てきた。いずれも首相としては欠落していることが多かったのだ。すでに述べてきたようにA群、B群、C群、そしてD…
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シリーズ「伴食宰相」(2)独ソからいいようにあしらわれた平沼騏一郎の弱さ
林銑十郎の後を継いだ第1次近衛文麿内閣、その後が平沼騏一郎であった。この平沼もまた首相の器だったろうかとなると、疑問を呈さざるを得ない。いくつもの疑問があるのだが、最大の疑問は、平沼は天皇に嫌われて…
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シリーズ「伴食宰相」(1)林銑十郎 “軍部の政治爾介入の道筋つけた越境将軍”
昭和という時代には、32人の首相が政治を担った。この中には、これでよく首相が務まったねと嘆きたくなる人物(「伴食宰相」)が何人かいる。結局そういう人物の後に必ず独断、無思想、無定見、さらに声だけは大…
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政治的業績を残さなかった石橋湛山は、それでも普遍的な言論人だった
石橋湛山は首相としては、政治的業績を残したわけではない。政治家の判断を、実際に何をなしたかという結果で見るならば、石橋は特筆される点は決して多くない。しかしこれまで述べてきたように、言論人のその活動…
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石橋湛山は日本人の恐怖と極端さをも深慮していた
言論人・石橋湛山の論稿の中から大正デモクラシー時代に関わる2つの論を紹介した。国会の常時開会と小日本主義でいいではないかとの論であった。さて政治家に転じた後の石橋は、自らの言論をいかにして政策に変え…
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植民地は軍事的にも持つ意味はないと論じた石橋湛山の先見性
石橋湛山が、大正10(1921)年7月、8月に書いた「大日本主義の幻想」は当時の大正デモクラシーの空気を十分に代弁している。いわゆる小日本でいいではないかというのは、極東の一角に民主主義の範となる国…
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石橋湛山は実証的な大日本帝国主義批判をした、ただ一人の言論人
近代日本が帝国主義の道筋を選択したことに、不満、不平を持った有識者は決して少なくない。それが是か否かはすぐに結果が出たわけではないのだが、「否」という流れを背負っていることを指摘した論者は珍しい。し…
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帝国議会の会期は12カ月にしろと提言した石橋湛山の先見性
石橋湛山の言説はどのような内容なのか。明治44(1911)年に東洋経済新報社に入社して、社会評論雑誌「東洋時論」の編集に参加、以来同社にあって時代への警世の論を描き続けた。その中から代表的な論説(歴…
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戦後初の私大出身首相・石橋湛山の誤算
石橋湛山についてはこれまであまたの稿が書かれている。私自身も書いてきたので、内容がかぶることもあるのだが、このシリーズではあえて首相としての石橋に触れることにしたい。首相になってわずか65日で健康を…