歴代68勝 最強監督が語る甲子園
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決勝戦にたどり着いたとき高塚の肩はボロボロになっていた
高校野球の球数制限が、少し前から話題になっているでしょう。その話を聞くたびに「ああ、彼には申し訳ないことをした……」と思い出すのが、1997年ドラフト7位で近鉄に入団した高塚信幸(39)です。一軍で…
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フリー打撃で大学生の目をテンにさせた高校2年打者
昨年限りで引退したヤクルトの武内晋一(35)は入学当初、投手でした。ところが、ティー打撃をやらせたら、もう打球音からして違うんですね。高校生離れしているというか……。その当時からプロに行くだけのもの…
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日ハム西川遥輝に「あの投手どうだ?」と聞くと、即座に「行けます」と1球目に盗塁成功
日本ハムで活躍している西川遥輝(27)は、高校時代からええ選手でした。いや、中学生、いやいや小学生の頃から、和歌山県内ではそれと知られた存在だったんです。 彼が中学時代、視察に行ったことがあ…
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カッとなり足を蹴飛ばした 中日・岡田俊哉の実家に謝罪へ
この連載の初回でも書きましたが、私が2008年にお遍路に行くきっかけになったのが、09年ドラフト1位で中日に入団した岡田俊哉(27)です。当時は高校2年生でしたね。 入学当初は170センチそ…
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帝京・前田監督はいい人…ただ「いらち」が玉にキズ
私は高校野球の監督を40年以上やりましたが、では、ほとんどの強豪校の監督と付き合いがあるかというと、そんなことはない。 四国、近畿、中部といった近隣の地域の監督とは練習試合もするので、付き合…
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中日・根尾は大学を経てからのプロ入りでもよかったのでは
私は高卒で直接プロに行くことは、あまり勧めていないんです。もちろん家庭の事情などはありますが、可能なら大学を経てからプロに行ってほしい。そう考えて、監督をやっていました。 だから、去年のドラ…
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あんだけ体重があるのに大阪桐蔭の西谷監督はフットワークが軽い
「あんた、悪いことしてるんちゃうか。だから、怨念がその腹に詰まっとるんやろ」 「違いますよ、何言ってるんですか高嶋さん」 これ、私が大阪桐蔭の西谷浩一監督(49)と顔を合わせたときの定番…
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甲子園決勝でノーヒットノーランの怪物をどう育てたのか
横浜高校(神奈川)の渡辺元智監督(当時、74)に、「松坂(現中日)はどうやって育てたんですか?」と聞いたことがあったんです。 1998年の夏の甲子園。決勝戦でまさかのノーヒットノーランですか…
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横浜高校・松坂大輔のフィールディングに度肝を抜かれた
PL学園(大阪)といえばKKコンビ、桑田・清原が有名ですね。対戦したことはありませんが、ある年の秋季近畿大会で桑田真澄のピッチングを見たことがある。 最初は、なんてことない、と思ったんですよ…
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PLの練習を見て何度「本当に高校生か?」と思ったことか
PL学園の中村順司元監督(72)は、私にとって雲の上の人でした。同じ昭和21(1946)年生まれの同級生なんですが、実績が違いますからね。81年のセンバツで優勝すると、82年春、83年夏、そして84…
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「この人には負けたくない」と思った大垣日大・阪口監督
今年のセンバツで平成最後の優勝を飾った愛知の東邦を、平成最初に優勝させたのが大垣日大(岐阜)の阪口慶三監督(74)です。かれこれ40年以上の付き合いになりますね。 始まりは奈良の智弁学園時代…
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星稜の剛腕・小松辰雄が試合前練習で全力投球しなかった訳
星稜(石川)の山下智茂元監督(74)とは1度だけ、甲子園で対戦したことがあります。私が奈良の智弁学園の監督だった1977年の夏。後に中日で122勝した小松辰雄が、星稜のエースでした。 ウチは…
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箕島との練習試合では尾藤監督を質問攻めにし野球の勉強を
私が智弁和歌山に転勤したのは1980年。同じ和歌山の箕島は、前年の甲子園で春夏連覇しているチームです。 だから、私にとって尾藤公監督(享年68)ははるかかなたの存在でした。 徳島・池…
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池田高校との初練習試合は計算機が必要なくらい打たれた
「やまびこ打線」で名を馳せた池田高校(徳島)の蔦文也監督(享年77)にもお世話になりました。年齢は私より20歳以上も年上なんですが、奈良の智弁高校の監督をしていた20代の頃から可愛がってもらった。まあ…
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監督のまま亡くなられた上甲さんはある意味では理想です
「あの試合を境に、智弁和歌山は甲子園で機運に乗って、結果を出すようになった」 上甲正典監督(享年67)に後年、そう言われたのが1994年のセンバツの準々決勝です。4点差から終盤にひっくり返して…
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1994年春の準々決勝で宇和島東を破った試合には伏線あった
2014年に亡くなられましたが、愛媛の宇和島東と済美で指揮を執った上甲正典監督(享年67)には、「甲子園でこうやれば勝てる、優勝できる」というものを教えてもらいました。直接教わったのではなく、試合の…
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面識のない明徳義塾の馬淵監督から突然電話がかかってきた
土佐高校と初めて練習試合をすることになったとき、突然、「ウチともやりましょう」と電話してきたのが明徳義塾の馬淵史郎監督(63)なんです。今から25年前のことになります。 それまで面識なんてな…
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「勉強ができるから入学した」土佐高校野球部に衝撃を受けた
昭和45年だから、1970年ですね。この年に日本体育大学を卒業した私は、保健体育の教師として奈良の智弁学園に赴任することが決まった。 通常、学校人事は4月1日からですけど、私は3月から智弁学…
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選手蹴り謹慎…理事長に勧められたお遍路で出合った木札
■辞表を手に理事長室へ 「一瞬の感情で地獄に落ちる人もいる。感情に負けない心を磨きましょう」 あれはどこの山中だったかなあ……。お遍路で四国を歩いているとき、何げなく見やった木に、そう書…