「べらぼう」が100倍わかる!ぶらり吉原
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(5)吉原の遊郭を認める際、江戸幕府は五カ条の条件を出した
元和3(1617)年、申請から12年、吉原(元吉原)に遊郭が認められた。今の浅草方面(新吉原)ではなく、人形町付近の葦原(後に吉原と改名)である。 江戸で遊郭はなぜ、なかなか認められなかった…
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(4)吉原は最初の請願から許可まで、12年の歳月を要した
慶長元(1596)年、家康が駿府の二丁町に遊郭をつくり、都市にも遊女が集まり出したと前回書いた。跡地の稲荷神社には「吉原発祥の地」という碑が立っている。明治時代の静岡県知事が建てたものだが、同じく、…
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(3)吉原ができる前に大手町界隈にはなまめかしい湯女がいた
遊女の歴史は古いが、中世までは散娼だった。集娼となったのは近世以降のことである。散娼とは、組織化されていない遊女のこと。集娼とは、吉原のように組織化され、管理下に置かれた遊女である。 元吉原…
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(2)中世まで遊女は管理されず、神事も担った
吉原が営業を開始したのは元和4(1618)年とされている。ここでいう吉原はいまの浅草界隈ではなく、人形町・日本橋界隈にあって、区別するために元吉原と呼ぶ。 もちろん、遊女の歴史はもっと古く、…
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(1)文学から民俗学、人類学、女性史まで…数多の学者が挑んだ光と闇
NHKの大河ドラマ「べらぼう」の影響で「吉原」に大きな注目が集まっている。江戸時代、吉原は大門をくぐれば、別世界が広がっていた。吉原とはどういうところで、女郎とはどういう存在だったのか、その歴史も含…