DeNA2位の平田真吾 “ホタルの里”から横浜の星へ
「卓球も素晴らしいスポーツですが、やはり将来を考えると夢があるスポーツの方がいい、というお父さん(久治さん)の意向がありまして。『卓球では食べていけないけれど、野球なら万が一がある』と(笑い)。真吾が小学校に入る頃には兄2人も地元でソフトボールをやってましたから。その流れで、卓球ではなくソフトをやらせることになったのです」(芳江さん)
そんな平田がプロ入りするまでに成長できたのは「過疎」の影響も大きい。
■1学年4人
05年に下関市に合併された町の人口は現在約6000人。高齢者中心で子供は少なく、平田が通った豊田中小学校も例外ではなかった。当初は全生徒数が120人前後だったが、子供の数は年々減少。最終的には1学年15人前後にまで落ち込み、平田の同学年の男子児童にいたっては本人を含め4、5人にまで減った。遊び相手は自然と4歳上の長男、2歳上の次男ら上級生が中心に。小学2年から始めたソフトボールでも、低学年時から上級生レベルの技量が求められた。
「低学年から6年生のお兄ちゃんたちと一緒にソフトをやるんですから。負けじとプレーするので、擦り傷やアザをつくって泣いて帰ってくることもよくありました。その結果なのか、小学校を卒業する頃には体力、ソフトの実力が同級生に比べ突出していたみたいで。子供の成長は環境ですかね」(芳江さん)