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六川亨サッカージャーナリスト

1957年、東京都板橋区出まれ。法政大卒。月刊サッカーダイジェストの記者を振り出しに隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長を歴任。01年にサカダイを離れ、CALCIO2002の編集長を兼務しながら浦和レッズマガジンなど数誌を創刊。W杯、EURO、南米選手権、五輪などを精力的に取材。10年3月にフリーのサッカージャーナリストに。携帯サイト「超ワールドサッカー」でメルマガやコラムを長年執筆。主な著書に「Jリーグ・レジェンド」シリーズ、「Jリーグ・スーパーゴールズ」、「サッカー戦術ルネッサンス」、「ストライカー特別講座」(東邦出版)など。

鹿島を常勝軍団に育てた強化責任者・鈴木満さんの退任に思うこと

公開日: 更新日:

 J1リーグ優勝8回、リーグカップ優勝6回、天皇杯優勝5回にACL優勝1回ーー。

 20個ものタイトルを獲得して〈常勝軍団・鹿島〉の礎を築いた鈴木満FD(フットボールダイレクター)が、年の瀬の12月27日に今シーズン限りでの退任を発表した。

 鈴木氏は宮城工から中央大を経て、鹿島の前身である住友金属に入社。選手として活躍後は1989年に監督に就任。Jリーグ誕生に合わせて鹿島アントラーズの立ち上げに尽力し、トップチームのコーチを務めた後、1996年からは強化責任者としてリーグ初優勝を果たすなど数々の栄光を鹿島にもたらした。

■トルシエ監督を肴に盃を交わしたアスンシオンの夜

 1999年にフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表は、パラグアイで開催されたコパ・アメリカに招待された。大会期間中はトルシエ監督と主軸MF名波浩が対立するなど険悪なムードが漂い、成績は1分け2敗と白星なしに終わり、大会後はトルシエ監督の進退問題にも発展した。

 このコパ・アメリカでは、たまたま同じホテルに泊まっていた満さん(鈴木氏のことを記者やサッカー関係者は、その気さくな人柄から満さんと呼ぶ)、当時は横浜Mのチームディレクターだった下條佳明氏(現・松本テクニカルダイレクター)の3人でホテルのバーでサッカー談義に盛り上がった。

 南米の選手たちのずる賢いプレーを肴に盃を交わし、時にトルシエ監督への不満点を挙げたり、カウンターに並んでアスンシオンの夜を楽しんだものだ(湖畔のホテルは治安が良かったものの、窓の外はただの暗闇ではあったが)。 

 話を元に戻そう。鈴木氏が辞任の決意を固めたのは、親会社がメルカリに移行して「3年目がひとつの区切りと思い、今年が最後と思ってスタートした」ものの、タイトル奪還は果たせなかった。 

 さらに「5年間でタイトルを取っていない。川崎Fとは(勝ち点)20点差。責任を感じていたし、強化の責任者としてひとつの区切りにしないといけない部分があり、自分が代わるのが一番、分かりやすい」と判断しての決断だった。

 この「5年間でタイトルを取っていない」は重たい言葉だ。

 2017年から川崎Fと横浜M以外、リーグタイトルを取ったチームはない。だからといって、それで強化責任者が辞任したチームは皆無である。満さんの退任から、それだけ〈常勝を義務付けられている〉のが鹿島というチームであることが分かるだろう。 

 その原動力となったのが、満さんが確立した鹿島の流儀ともいえるサッカースタイルだ。

 4-4-2をベースにした堅守速攻は、劣勢に見えても「最後に勝つのは鹿島」だった。そんな鹿島を支えたのが、満さんら強化部の選手を見極める確かな目に加えて〈伝説のスカウトマン〉と言われた平野勝哉の存在だ。

■鹿島のスカウトが歩いた後はペンペン草も生えない

 柳沢敦(富山第一)、平瀬智行(鹿児島実)、鈴木隆行(日立工)、中田浩二(帝京)、本山雅志(東福岡)、小笠原満男(大船渡)といった高卒の即戦力ルーキーを獲得し、日本代表にも育て上げた。

 高校サッカー選手権やインターハイはもちろん、全国各地のフェスティバルもつぶさに視察。「自分以外はこの試合を見に来ていないだろうと思ったら平野さんがいた」とか、選手獲得の交渉に入る以前に「平野さんの歩いた後はペンペン草も生えていない」と言われたほどのスカウトマンが平野氏だった。

 その伝統は後継者にも受け継がれて優秀な選手を獲得してきたが、近年では昌子源(米子北)、植田直通(大津)、柴崎岳(青森山田)、鈴木優磨(鹿島ユース)、安部裕葵(瀬戸内)ら多くの高卒ルーキーが海外に活躍の場を求めた。

「強いチームで優勝するよりも海外へ出て行きたい、25歳までじゃないと海外には行けない、と若年化している。(入団して)2~3年で選手を(引き)抜かれたり、枝葉の選手ではなく、『この選手を中心にしてチーム作りをしよう』と思っていたのに抜かれるとチーム作りは難しい」と時代の変化を口にした。

 今後について問われると「30年の人生、ほとんど鹿島に使ってきた。趣味もないし、これからどうしたらいいか、分からない」と満さん。正直な感想だろう。

■選手を公平に見ることの難しさ

 選手と接する際に意識したのは「公平に接してあげること」だった。

「サッカーの世界は、競争の激しい世界。そこでちゃんと評価されていないと思ったら(選手は)ポテンシャルも発揮できない。そこで公平に、しっかり現場を見て評価することを意識したし、それを選手に植え付ける」ことの重要性を強調した。

 このことは、他チームの強化担当者もやっているかも知れない。しかし、満さんは徹底していた。

「公平に見るために、選手とは食事や飲みには行かない。仕事(だけ)で信頼関係を作るのは非常に難しいよ」と笑ったが、誰もができることではない。

 それを満さんは、30年近くも守り通してきた。これも〈鹿島イズム〉の原動力のひとつだろう。

 現在の心境を聞かれると「一番は、ほっとしているところ。ちょっと気持ちが楽になったというか。そういう感覚がありますね」と肩の荷を下ろした安堵感を口にした。

 鹿島でのサッカー人生については「長い期間でしたけど、自分としてはあっという間でした。1週間に2回(試合の)結果が出るし、毎日毎日が戦い。刺激のある日々で今、振り返っても30年はあっという間だった」と達成感を述べていた。

 鹿島の前身である住友金属は、日本サッカーリーグ(JSL)では2部を主戦場としてきた。鈴木氏はJSLに3シーズン52試合に出場し、3アシストを記録した。ジーコが加入しても、ホームゲームは住友金属鹿島の敷地内にある、照明設備も満足にないグラウンドで試合をしていた。

■ジーコのハットトリックで自信が生まれた

それが、サッカー専用のカシマスタジアムの建設により、まさかのJリーグ「オリジナル10」入りを果たした。そこから鈴木氏の新たな挑戦は始まった。

 1993年5月16日、ジーコのハットトリックなどで名古屋に5-0と大勝。お荷物の下馬評を覆した。「名古屋に勝って、これで何とかJで戦っていけるかな、と自信になった」試合でもあった。

 以来30年、これだけ長きに渡り、ひとつのクラブに関わったJリーグ関係者はいない。それだけ希有な存在でもあるが、満さんなら「そんなことはないよ」笑って否定するだろう。

 本当に「お疲れ様」と言いたいところではあるが……もし満さんが他チームの強化担当者に就任したら、そのチームはどうなるのか? その可能性は極めて低いだろう。しかし、それはそれで大きな楽しみでもある。

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