“森保Jの心臓”遠藤航の成長過程 湘南時代の恩師・曺貴裁監督の言葉からひもといた
夢は英プレミアリーグ移籍
──翌10年には(高校生年代の)2種登録ながらJ1デビューと順調に階段を駆け上がった。
「当時の湘南のトップの監督は、ソリ(反町康治=現JFA技術委員長)さんで『まだ華奢だけど、J2なら使える若手がいる』とよく話していました。『J1は少し早いかもしれない』とも言ったけど、ソリさんは使いましたね。翌11年はプロ1年目だったけど、ほぼフル稼働したと思います」
──12年に曺さんがトップ監督に就任。19歳の遠藤にキャプテンマークを託すこともあった。
「航はPKを外して負けたり、退場して泣いたりと重責を担って心を痛めながらも成長していった。自分の立場をきちんと理解できる彼なら、そういう役目を渡していいと僕は思った。『先輩の顔色を見ないと(何も)できないよ』っていう人間じゃなかったですからね。当時は永木亮太(名古屋)が主将で航が副主将で15年以降は揃って代表に入るようになった。お互いに切磋琢磨できる関係性があったのもよかったんじゃないかな」
──16年リオデジャネイロ五輪でも、今はドイツでも主将を務めている。
「チームの調子が悪くても引きずらず、傑出した問題解決能力を発揮できる人間ですから。企業でいうと若くして社長になったタイプ。権威を振りかざすことはなく、常に動じないで物事に取り組める冷静さが、航の強みなんです」
──ポジションは3バックの右が中心だった。
「僕は後ろの方がいいと思ってた。シュツットガルトでボランチとしてあれだけ実績を残すのを見て『早めに(DFよりも)前にしなくて悪かった』と本人に謝ったくらい(苦笑)。今は全てが速くなりましたね。ただ、湘南時代は3バックの方がベターだった。元イタリア代表DFのバレージやコスタクルタ、日本代表主将を務めた宮本恒靖(現JFA理事)のようなイメージでしたから」
──16年の浦和移籍後、18年ロシアW杯の代表でも複数ポジションをこなす万能型というイメージだったが、欧州でボランチとして成功した。
「同世代の大島僚太(川崎)らを間近で見て『自分にはそこまでのパスセンスはないけど球際の強さ、予測力、連続性という強みがある。それで欧州で勝負するんだ』という強い意思を航は持っていた。18年にベルギーのシントトロイデンへ行ってから布石を打ったと思います。本人も『このタイミングで海外へ行かないと先はない』と言ってました。19年夏にシュツットガルトへ移籍した時も、最初の10試合くらいは使われなかったけど、その年の12月から就任したマタラッツォ監督には高く評価された。航には運もあると思います」
──今季の主戦場は右インサイドハーフだが。
「ガチガチのアンカーではないですよね。2年連続のデュエル王についても『どういう数え方してるのかな』って航本人も疑問を抱いていたようです。実際、航は攻撃参加した時のクロス、スルーパス、ミドルシュートが昔からうまかった。ギリギリのところで判断を変える応用力もあった。3バックの右の時も得点には相当絡んでいましたしね」
──ロシアW杯で出番なしに終わったが、カタールW杯では絶対的主力。8強入りを左右する存在と言っていい。
「航はブンデスの強さを肌で日々感じているし、それを自信にしていつも通りに戦えばいいと思います。『W杯は違う』『魔物がすんでる』とか言いますけど、最初からそれを想定する必要はないし、ブレずにプレーできる力が航にはある。たとえばドイツ戦で0-2とリードされて劣勢に陥ったとしても、航は『ボール受けたくない』ということにはならない。僕は、堂々とプレーしている彼の姿を見たいです。航の夢は英プレミアリーグ移籍ですが、それもW杯の結果次第。まだ20代だし、チャンスはある。ぜひつかみ取ってほしいですね」
▽遠藤航(えんどう・わたる) 1993年2月9日生まれ。横浜市出身。南戸塚中サッカー部から湘南ユース。2011年にトップに昇格。15年12月に浦和に移籍。18年にベルギー1部シントトロイデンに移り、翌19年に独1部シュツットガルトに移籍。21年から主将を務めている。15年7月に日本代表初選出。18年ロシアW杯メンバー入り。16年リオ五輪、21年東京五輪に出場した。身長178センチ・体重76キロ。
▽曺貴裁(ちょう・きじぇ) 1969年1月16日生まれ。京都市出身。洛北高-早稲田大から日立、柏、浦和、神戸でプレー。97年に引退後、川崎ジュニアユース監督、セレッソ大阪コーチ、湘南U-18監督を経て2012年から湘南の監督。18年ルヴァン杯優勝。20年12月に京都の監督に就任した。