ケニア人ランナーを売る男
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<第14回>最後はケニアの土になるだけさ
成田空港が開港する1年前の77年春。小林俊一氏は羽田から柳行李1つ持ち、ケニアに向かった。 あれから39年。小林氏は振り返る。 「私の人生、フーテンの寅さんと一緒で、行き当たりばったり…
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<第13回>夢はヘレンがケニア代表で東京五輪メダル獲得
20年東京五輪まで4年。小林俊一氏は、やや興奮ぎみに私を前に語った。 「現在、仙台育英2年のヘレン・エカラレ、彼女に注目してよ。4年後はケニア代表で東京五輪に出てね、メダルを取る。これまでケニ…
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<第12回>川内優輝をケニアに誘って五輪代表にしたかった
2年ほど前だ。帰国中の小林俊一氏から電話が入った。 「今晩5時、ホテルに来てよ」と。出向くと開口一番こう言った。 「公務員ランナーの川内(優輝)、最高だよ。週末になると練習の一環としてハ…
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<第11回>リオの日本男子マラソンは入賞も期待できない
リオ五輪マラソン代表選手男女6人を報じた記事を手に、小林俊一氏は肩をすくめて言った。 「あのね、このメンバーでメダル狙える? 百パーセント無理だろ。男の場合、2時間6分以内で走んなきゃ。ケニア…
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<第10回>ケニアのドーピング違反ほとんどがカレンジン族
リオ五輪開幕を前に、ロシアはドーピング問題で大揺れだが、同様にケニア陸連も疑惑が報じられた。小林俊一氏は語る。 「ケニアの長距離界はキクユ族とカレンジン族の2大勢力が君臨していてね。キクユ族は…
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<第9回>万引きをする者がいると私が始末書を書いてきた
《ナイロビ朝5時 いや驚いた。15年前に仙台育英に入学した女子選手のキャロライン・ロティチが、30歳でボストンマラソン優勝。同期でホンダに行ったサムエル・カビルは21歳で白血病死。サムエル・ワンジルは…
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<第8回>ケニアにスカウトに来た日本人は追いはぎに遭い…
走る後ろ姿のフォーム、脚の蹴りを見る─―。 ケニア人ランナーをスカウトする場合の秘訣を、小林俊一氏はそう語った。だが、それだけではない。 「日大の2年生、5月の関東インカレで5000と…
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<第7回>“陸上の神様”がマラソン界の不甲斐なさを知ったら
三段跳び(アムステルダム大会)で日本人初の五輪金メダリストになり、“陸上の神様”とあがめられた織田幹雄氏。小林俊一氏は生前の織田氏と深い関係にあった。 「早稲田の大先輩だし、よく一緒に飲んだ。…
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<第6回>山梨学院大の「投資」はオツオリの走りで大成功
(ウナ、ソマ、マラソン、ジャパン、カジ、ヤコ、ムズリ、ポーレ……) 92年正月、箱根駅伝で初めて山梨学院大が総合優勝した際、エースで活躍したジョセフ・オツオリについて聞いているときだ。小林俊一…
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<第5回>陸上界から“法に触れない詐欺師”と呼ばれるまで
私が小林俊一氏に出会ったのは19年前の6月半ば。場所は、ともに贔屓にする、東京・新宿駅東口近くの“アスリートが集う居酒屋”「酒寮・大小原」だった。 すでに当時の日本陸上界ではケニヤッタ小林の…
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<第4回>選手を斡旋する悪徳ブローカーだと文春に叩かれた
「ケニヤッタ小林」の名が週刊誌を賑わしたのは、1994年の新年早々。1月20日号の週刊文春に次のようなタイトルが躍った。 《高校駅伝初のアベック優勝 仙台育英“ケニアパワー”に問題のブローカー …
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<第3回>ソウル銀のワキウリは走る後ろ姿を見てスカウト
俺は「人買い小林」に徹する――。 そう小林俊一氏が決意したのは、88年のソウル五輪後だと語る。 故・中村清監督率いるエスビー食品に斡旋したダグラス・ワキウリが、87年の世界陸上で優勝…
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<第2回>イカンガーがレースを引っ張った選考会の翌日…
ジュマ・イカンガー。マラソンファンにとっては懐かしい名前だろう。その彼にマラソン転向を勧めたのが小林俊一氏だった。 39年前の77年。小林氏が初めてケニアの地を踏んだ秋、タンザニアで東アフリ…
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<第1回>約70人のケニア人を連れてきて3人が五輪メダル
ケニア在住39年。多くのケニア人ランナーを日本に斡旋し、駅伝やマラソンに刺激を与えてきた「ケニヤッタ小林」こと小林俊一氏。その正体は謎に包まれているが、20年来の友人でルポライターの岡邦行が長期間取…