海の教場
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<79>幸せな人生だった。悔いはない
練習船みうらのエンジンがかかった。 甲板に出ると、ファンネルから黒煙が漂っていた。重油の匂いが鼻をつく。 桃地はこの匂いが嫌いではない。いざ海へ出発だと体中の細胞が高揚する一方で、今…
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<78>頑強な皮膚の向こうに彩子を救う臓器が
第五章 夜明け前 「学生のみなさん。朝六時になりました。起床し、点呼を行ってください」 毎朝、学生たちは当番のこの放送で起こされる。桃地は今朝六時に出勤した。学生寮の起床の様子から見て回…
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<77>医師の手元に家族関係を示す書類
生体肝移植に踏み切ったとしても、HLA型の違う桃地の肝臓では、生存率が三割……。 「三割と言いましても、意識不明の寝たきり状態でも心肺が機能していれば生存とカウントします」 志村医師の…
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<76>彩子が心細げに桃地の手を握る
桃地は彩子と白いテーブルに並んで座り、移植コーディネーターと向かい合う。 彼女は血液検査の結果をテーブルに広げ、難しい顔になった。 「血液検査結果ですが……。HLA型が不適合ですね」 …
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<75>彩子がホームに降り立つなり大笑い
特急まいづるがJR京都駅に到着した。 桃地は彩子の手を恭しく取り、駅のホームに導く。 「なにそのオチ……!」 彩子はホームに降り立つなり大笑いする。 特急電車で京都駅に…
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<74>水を蹴って仲間たちの輪に戻る
水上バイクにしがみついていた望月は──。 望月の復帰を信じ、見守る仲間たちが、彼の背後で一心に立ち泳ぎしている姿を見て……。 顔をぐしゃぐしゃにして泣いたのは、三秒だけだった。 …
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<73>行けよ望月 仲間と泳げ
桃地は水上バイクから「望月!」と叫ぶ。 教官のサーフボードにしがみついていた望月が顔を上げる。桃地の腫れた左目を見て悲壮に顔を歪めたが、ほっとした表情も見える。 「こっちまで泳いで来い…
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<72>初救助は水害現場で溺れていた犬
遠泳訓練運営本部のテント下で、桃地はおにぎりを食うのも忘れてメモ帳を捲る。日付と海難救助の事案が時系列で書かれている。最初のページに戻った。 『望月君がトッキュー時代に対応した事案』 …
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<71>望月は5回も引き上げを要請
遠泳開始から二時間が経過した、十一時四十分。 比内が腕時計を見て、首を傾げる。 「今年はペースが遅いな」 いつも一時間ちょっとで学生たちは一往復する。運営本部のテントの目の前に…
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<70>手を固く握り合い、完泳を誓う
「第五分隊行くぞー!」 先頭の学生の掛け声が波打ち際に響く。五番手で出発する第五分隊五十人の学生たちが二列縦隊になり、海に入っていく。 「うわぁ、軽ッ……!」 首までつかった学生…
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<69>栗田湾でいよいよ遠泳訓練
遠泳訓練はお隣の宮津市にある栗田湾で行われる。 緩やかな弓型をした、白い砂浜だ。泳いでいる魚が見えるほど透明度も高いのだが、波打ち際から五メートルで大人も足が付かないほど深くなる。周辺には漁…
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<68>瞼が大きく腫れあがり青黒い
遠泳訓練当日。 目覚まし時計を止めようとしたが、寝起きでピントがうまく合わない。隣の布団の彩子がびっくりした顔で桃地を見た。 「左目。大変なことになってるよ。お岩さんみたい」 …
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<67>元特殊救難隊員がビート板とは
泳げなくなった海猿の遠泳の特訓は、試行錯誤の連続だった。 浮体がないと沈んでしまう望月の姿は、あまりに滑稽だ。 特訓二日目、どこからか手を叩いて笑う声が聞こえてきた。 岸壁に…
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<66>引き締まった臀部が浮かび上がる
鐵が小型艇を出し、桟橋のスロープから直線で二十五メートルの位置にブイを設置する。桃地と望月ら第五分隊五班の学生は準備体操を終えた。桃地も一緒に体を動かし指示する。 「次、天突き運動三百回!」 …
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<65>そんな奴は海保にはいらない
放課後、桃地は第三種制服から水着に着替えた。学生たちと同じ、くるぶし丈まである水着だ。ラッシュガードも着用する。体の線がはっきりと出るので全身タイツみたいだ。ダイエットしておいてよかった。以前の体型…
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<64>桟橋にひたむきに腕立て伏せをする姿
望月の件で航空課程の担任教官と話をすべきだった。桃地は三十分早く出勤する。 本館へと続くまっすぐの道を自転車で進んだ時、桟橋でひたむきに腕立て伏せをしている望月の姿が見えた。 午前七…
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<63>日本一深い海でどこまでも沈んでいく
特殊救難隊の基地長から事情を訊いていた彩子が電話を終えた。 「去年の春先に、駿河湾でSUPをしてた人が流された事案が原因みたい」 SUPとは、サーフボードのような形をした専用のボードを…
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<62>望月くんが泳げないってどういうこと
「えっ。あの望月君が?」 彩子が大皿に盛ったサラダを食卓に出しながら驚愕する。帰宅して手洗いうがいしている桃地を鏡越しに見ている。 彩子と結婚して七日目、一緒に暮らし始めてまだ三日………
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<61>下半身が沈み、足先がプールの床に
放課後、桃地は望月をプールに呼び出した。 水着になってくれるまで時間がかかった。望月は怪我をしているだのなんだの理由をつけるも、最終的にはちゃぽんとプールに入った。 「泳いでみろ」 …
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<60>遠泳訓練前に捻挫の訴えが増える
遠泳訓練が一週間後に迫っていた。桃地は昼食後、厚生棟の二階にある小さな診療所を訪れた。 生体肝移植を控え、健康管理に気を使っている。食後、必ず血圧を測るようにしていた。 診療所は白い…