千葉真一 最後の肉声
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(10)「2世俳優であっても、偽の俳優にはなるな。命懸けで、父親を超えていけ!」
ロサンゼルスに活動拠点を移して以降、何よりうれしかったのは男の子2人を授かったことだ。 長男は私が57歳のときの、次男は還暦を過ぎてからの子供である。「いい年をして」と思う人もいるだろうが、…
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(9)誕生日にタランティーノが家にやってきて「私の次回作に出てください」と
今やすっかり巨匠となったクエンティン・タランティーノに初めて会ったのは1990年代半ばである。私はロサンゼルスに活動の拠点を移しており、現地の寿司屋で会った。その雰囲気は映画監督というより映画青年と…
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(8)映画「柳生一族の陰謀」の大ヒットで“柳生十兵衛=千葉真一”が定着
役者には当たり役がある。勝新太郎さんなら文句なしに「座頭市」だろうし、健さん(高倉健)なら「昭和残侠伝」シリーズの花田秀次郎、文ちゃん(菅原文太)なら「仁義なき戦い」シリーズの広能昌三だろうか。では…
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(7)「激突!殺人拳」が全米で大ヒット「サニー千葉」の名前が知れ渡った
1973年の暮れに一本のアクション映画が公開され、世界を席巻した。そう、ブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」だ。 こうしたブームにいち早く便乗するのが当時の東映だった。次々に空手映画を作り…
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(6)「パンツを脱いできなさい」デビュー当時の志穂美悦子に指示したワケ
テレビドラマ「キイハンター」が人気絶頂だった1970年。私はジャパン・アクション・クラブ、通称「JAC」を創設した。理由は単純である。日本の映画やテレビドラマのアクションシーンをもっと見栄えのするも…
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(5)「仁義なき戦い 広島死闘編」深作監督からギリギリで役の交代要請が…
「キイハンター」が約5年間、262話で幕を閉じると、映画の仕事が舞い込んできた。空前の大ヒット作「仁義なき戦い」の続編、「仁義なき戦い 広島死闘篇」だ。 尊敬する深作欣二監督の作品だから、断る…
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(4)野際陽子とのなれ初めは「キイハンター」での共演
かつては俳優や歌手の人気のバロメーターといえば、ブロマイドの売り上げだった。 実は、私は1969年、70年と、2年連続で男性部門の1位になっている。2位以下は、オックス、フォーリーブス、ザ・…
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(3)深作欣二監督との縁…映画監督というより土木作業の現場監督に見えた
昨年8月にこの世を去った“日本を代表するアクションスター”千葉真一さん。千葉さんにとって遺作の著書となったのが「侍役者道~我が息子たちへ~」である。自らの映画人生に加え、高倉健さんや深作欣二監督をは…
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(2)東映を辞めようと…高倉健さんの言葉「ケツまくるときは…」が胸を打った
昨年8月にこの世を去った“日本を代表するアクションスター”千葉真一さん。千葉さんにとって遺作の著書となったのが「侍役者道~我が息子たちへ~」である。自らの映画人生に加え、高倉健さんや深作欣二監督をは…
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(1)「東映ニューフェイス」に応募しトップ成績で合格も父親が猛反対、勘当される
昨年8月にこの世を去った“日本を代表するアクションスター”千葉真一さん。千葉さんにとって遺作の著書となったのが「侍役者道~我が息子たちへ~」である。自らの映画人生に加え、高倉健さんや深作欣二監督をは…