佐高信「追悼譜」
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倍賞千恵子を見いだした音楽プロデューサー長田暁二の手腕
音楽文化研究家と訃報に書かれている長田(おさだ)については、『メディアの仕掛人 徳間康快』(講談社+α文庫)の取材のために会った時に聞いた話が忘れられない。 山口組の3代目組長の葬儀の日、徳…
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ピーコは「長嶋茂雄のことをうれしがっている人を見るのが嫌い」と言った
誕生日が私より1日前の1945年1月18日だ った。もちろん、おすぎも同じである。 おすぎとピーコの人気というか、”威力”を痛感させられたのは私の父の葬儀の時だった。2003年のそれにいろい…
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映画評論家・白井佳夫が竹中労の傑作『鞍馬天狗のおじさんは』を生んだのだ
私が『福翁自伝』と並ぶ自伝文学の傑作と呼ぶ竹中労の『鞍馬天狗のおじさんは』(ちくま文庫)は、白井の存在なくしては生まれなかった。この「聞書 アラカン一代」は竹中が『キネマ旬報』に連載した『日本映画縦…
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死刑囚・永山則夫を弁護した大谷恭子の激しさと優しさ
大谷はいわゆる過激派の永田洋子(連合赤軍最高幹部)らの弁護をした人として知られる。しかし、コワイ女性ではなく、姉と慕う福島みずほによれば”下町の太陽”と呼ばれるほど明るかった。実家は米屋である。 …
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イラストレーター山藤章二は「笑いには下克上の力がある」と言った
ライバル視された山藤と和田誠がそれぞれ『週刊文春』と『週刊朝日』の表紙を描いていたことがある。しかし、「この試合には負けました」と山藤は笑った。『サンサーラ』という雑誌の1996年8月号で対談した時…
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純文学とポルノ小説を往来した宇能鴻一郎の生きざま
前回の福田和也と坪内祐三との共著『羊頭狗肉』(扶桑社)を繰っていたら、宇能についての絶好のネタが出て来た。さまざまな追悼文でも触れられないだろう。 「宇能さんには『切腹願望』って作品があって、…
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福田和也とは、司馬遼太郎批判以外一致することろがなかった
私が”チンピラ保守”と批判した福田とは、江藤淳をめぐるシンポジウムで同席したことがある。福田を見出した江藤についての討論だったからケンカになることもなかったが、 江藤は西部邁と同じく、中身のない保守…
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高木剛・連合元会長が非正規社員に軸足を移さざるを得なくなった時
高木の回想録を読んでいたら、エッと驚く名前が出てきた。赤軍の小西隆裕である。よど号事件で北朝鮮に行ったままだという。 「奥さんも時々、北朝鮮に行っているよ。彼は東大の医学部で、俺が卒業するまで…
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アルベルト・フジモリを称賛したビートたけしや福田和也への疑問
『政治ジャーナリズムの罪と罰』を書いた田勢康弘とは同じ山形出身ということもあって一時親しくつきあったが、のちに疎遠となり、そのまま先に逝かれてしまった。権力との距離感が離れるキッカケで、フジモリ評価も…
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フォークシンガー高石ともやは「沖縄を返せは 俺自身を返せなんだ」と歌った
山形県の長井市に「影法師」というフォークグループがいる。農民を中心とした4人組で、その師匠が高石だった。私は同郷ということで縁があり、「永田町イン影法師」等のイベントにつきあってきた。 今年…
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ウーマンリブの”代名詞”田中美津はあくまでも個にこだわった
もちろん名前は知っていたが、ウーマンリブの代名詞のような田中から私にお呼びがかかるとは思わなかった。 2019年11月1日の日記に私はこう書いている。 「『芸人9条の会』の公演で世田谷…
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へらず口を叩く相手だった石川好がいなくなった寂しさに耐えられるか
「近々また食事しよう」と電話で話したばかりだった。「おしゃべりの夫の肩にぼたん雪」という句を作った石川夫人の殿谷みな子は「あの人らしい」と語る。マイペースでさっさと逝ってしまったということだろう。 …
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「日本で唯一ゲバラにあたる」男と評された革命家・滝田修の最期
本名の竹本信弘で死亡を報じられても誰のことかわからない。しかし、滝田修なら、一時、全共闘運動の指導者として、マスコミの寵児だった。同じ1940年生まれに唐十郎や王貞治、あるいはデヴィ夫人がいるが、彗…
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『夢は夜ひらく』を歌った藤圭子は「暗」だったが、園まりのそれは「明」だった
私が大学生のころだった。渡辺プロダクション、通称ナベプロの3人娘として、中尾ミ工、伊東ゆかりと共に園は華やかなスターだった。 そのスターが赤坂に花屋を開いていると知って行こうと思ったことが…
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「日本の医療と福祉を悪くしたのは医師会、製薬業界だけじゃない」徳田虎雄が問題視したのは
徳田と「日本の医療を考える」対談をしたのは『宝石』の1998年4月号でである。 徳田は私の『民食う人びと』という官僚批判を読み、医者の世界にも、病気になった「弱き患者を食う人びと」はいっぱい…
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『やすし・きよしの長い夏』著した「大毎」の名物記者・近藤勝重
近藤を私は『やすし・きよしの長い夏』(新潮社、のちにランダムハウス講談社文庫)の著者として記憶していた。しかし、私と同い年であり、鈴木琢磨や小国綾子など『毎日新聞』の後輩記者が深い悲しみと親しみをこ…
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ベストセラー『危険な思想家』を著した山田宗睦の晩年に感じる寂しさ
山田の『危険な思想家』は1965年に出てベストセラーとなった。私の学生時代である。副題が「戦後民主主義を否定する人びと」で版元はカッパ・ブックスの光文社だった。当時はまだ、こういう本が争って読まれた…
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国際経営学者・小林規威は日本企業の閉鎖性を歯噛みし続けただろう
国際経営学者の小林は、日本の企業は少しは「開国」したのか、それとも「鎖国」のままなのか、どう判断して亡くなったのだろうか? 慶大教授だった小林にインタビューしたのは、ほぼ50年前である。 …
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「サタカさんスケベでしょ」と言われて、作家・梁石日をいっぺんに好きになった
大分親しくなってから、2004年の暮れに『俳句界』という雑誌で対談した。 「梁さん、元は詩人です。このごろはまったくお書きになっていないようですが。あ、いまも詩人ですか?」 私がこう問…
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俳人・鷹羽狩行の句には山口誓子の句ような重量感はなかった
書家だった私の父は山形県新庄市の出身である。鷹羽も新庄市生まれと知って、会っておけばよかったなと思った。俳人協会理事長、会長、そして名誉会長の鷹羽の「知的な句風」に惹かれることはなかったが、本名の高…