佐高信「追悼譜」
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崔洋一が『血と骨』の原作者・梁石日に「小さな破滅」を迫ったわけ
崔洋一にインタビューしたのは『週刊金曜日』の2004年11月5日号でだった。梁石日原作の『血と骨』が映画化されたのを機にである。 原作では主人公の金俊平は「2メートル近い大男」という設定にな…
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宮沢賢治を誤読した”番犬評論家”加瀬英明
あるドキュメンタリー映画を観ていて、保守の大物として加瀬が出て来て驚いた。失礼ながら、吹き出してしまった。親の七光のボンボンが”大物”かあ、と溜息をついたのである。会ったことはないが、8歳ほど上の加…
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人生を野球にたとえれば、村田兆治はカーブを投げられなかったのかもしれない
経済評論家の神崎倫一が拙著『情報は人にあり』(講談社文庫)の解説に次のように書いてくれてから、村田兆治のことは気になりつづけてきた。 「ケレン味のない直球投手である。ロッテの村田兆治のように、…
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稲盛和夫は京セラ従業員の墓に入ったのだろうか
ジェームズ・ボンドが活躍する映画007シリーズの1作に『007は二度死ぬ』があったが、いわゆる著名人は家族葬的なものと「お別れの会」で「二度死ぬ」ようである。 京セラの創業者の稲盛は「お別れ…
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田中角栄に惹かれた「朝日新聞」の政治記者・早野透
ユーチューブで流れる「3ジジ放談」が「2ジジ放談」になってしまう。平野貞夫、早野、私の3人でやっているそれが、早野の死によって平野と私の2人でやらなければならなくなったからである。 早野と私…
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”中内㓛に似てしまった”佐野眞一をノンフィクションの主流扱いしてはならない
1992年に出した拙著「現代を読む 100冊のノンフィクション』(岩波新書)には佐野の『業界諸君!』を挙げ、こう書いた。 <「セプテンバー・セックス」という老人たちの性を扱ったレポートを含む『…
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猪瀬直樹も丸ハダカにした戦後革新の証言者・高木郁朗が残した“遺言”
すでに死を覚悟していた高木が昨年の暮れに出した『戦後革新の墓碑銘』(旬報社)にこんな一節がある。細川護熙が辞任して羽田孜が後継首相となる時のことである。 「僕はこの過程でホテルニューオータニに…
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創業者・本田宗一郎と久米是志元社長の大論争はホンダそのものだった
本田技研で河島喜好から久米へ社長がバトンタッチされる時、創業者の本田宗一郎は社員に向かって、こう演説した。 「ホンダの社長は代々くだらんやつばっかりだったから、あんた方がしっかりしなきゃどうし…
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連立政権のキーマン武村正義が逝った…“ムーミンパパ”であり”バルカン政治家”だった
新党さきがけのトップとして、いくつかの連立政権のキーマンとなった武村(正義、9月28日死去、享年88)が亡くなって、『朝日新聞』に出た評伝で、武村に「最も記憶に残る政治家は誰か」と尋ねた記者の吉田貴…
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観光ポスターを見ながら「長崎は今日も雨だった」を作曲 ヒットメーカー彩木雅夫の心意気
落合恵子らのレディフレンドからヒンシュクを買う私の好きな歌に「なみだの操」がある。宮路オサムが歌ってヒットしたが、作曲が彩木雅夫。作詞が千家和也で、 <あなたのために守り通した女の操> …
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エリザベス2世とロンドン塔の悲劇
イギリスの女王エリザベス2世は1926年の生まれだった。マリリン・モンローやフィデル・カストロと同い年である。 読売のドン・渡辺恒雄もそうだが、ナベツネを持ってくると、現役感と同時に生臭さが…
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政治風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」の渡部又兵衛の不屈の精神
私がいま、日本で一番シャープなお笑い芸人と思っている松元ヒロは社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」から生まれた。松元と私の共著に『安倍政権を笑い倒す』(角川新書)があるが、松元と私はメール友だ…
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ゴルバチョフ死去の報で思い出した作家・米原万里への畏怖
ゴルバチョフ(享年91)の名前を出されると、条件反射的に米原万里のことを思い浮かべる。ゴルバチョフ死去の報に接した時もそうだった。 米原に初めて会ったのは日本テレビの「知ってるつもり?! と…
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小田嶋隆は相田みつをのことを「便所の神様」と風刺した
『にんげんだもの』でガマンを説く相田みつをが嫌いである。相田にイカれる人間はもっと嫌いだ。 その相田を「便所の神様」と喝破したのは小田嶋隆だった。トイレに置いてある日めくりなどによく相田が取り…
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照屋寛徳に次いで新里米吉も…沖縄「革新」への懸念
新里が急死して、玉城デニーの沖縄県知事選挙の選対本部長が交代することになった。 前沖縄県議会議長で社民党県連委員長でもあった新里は、デニーの前原高校の先輩でもあり、本部長にうってつけだった。…
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全共闘世代の河村光庸は芸能人への苛立ちを感じていたのだろう
この人には気まずい雰囲気のまま逝かれてしまった。 『東京新聞』の望月衣塑子がモデルの『新聞記者』のプロデューサーである彼に『俳句界』での対談を頼み、一度会ってOKをもらい、日時も決まっていたの…
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佐藤陽子で思い出すのは池田満寿夫ではなく、岡本行夫である
世界的バイオリニストで声楽家の佐藤陽子が亡くなったのは7月19日だった。享年72。芸術家の池田満寿夫のパートナーとしても知られ、テレビやCMにも一緒に出演したと訃報にある。 しかし、私は外交…
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写真家として初の文化勲章をもらった田沼武能に流した冷や汗
たった一度の出会いが忘れられないものとなった。 2003年10月1日、私は郷里の酒田市にある土門拳記念館の開館20周年で講演をした。そこに日本写真家協会会長だった田沼も来ていて、初対面のあい…
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「まっくら」や「からゆきさん」で女性たちの声を拾い続けた森崎和江の出会いと別れ
長田洋一という編集者がいる。私と同年輩で、河出書房新社で俵万智の『サラダ記念日』をヒットさせ、松下竜一の全集を出したりした。『文藝』の編集長として多くの作家と濃い付き合いをしたが、谷川雁が亡くなった…
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農民作家・山下惣一は農政への憤りを抱えたまま旅立ったのだろう
農民作家と肩書のつく山下惣一に怒られたことがある。井上ひさしが校長の生活者大学校が毎年、井上の郷里の山形県の小松で開かれていて、ある時、講師を頼まれて何か話をした。その後で、教頭役の山下に「テーマと…